中庭は、現場検証をする警察関係者であふれていた。
被害者は庭の中央にある噴水の中に全身を浸すように、いうなれば、その噴水の池に浮かんでいるような格好で死んでいた。背中からナイフでひと突きにされたらしく、ちょうど心臓の裏あたりの位置にナイフが刺さったままである。
「鑑識はOKか?」
「はい、OKです」
「じゃあ、引き上げてくれ」
目暮は水に浮かんでいる死体を見やって指示を与えた。
「警部、被害者は土門嫌人、三十六歳、男性です。ホテルの宿泊名簿と被害者の部屋にあった車の免許証から間違いありません。先週から一週間の予定でこのホテルに泊まっていたそうです」
そばにやってきた白鳥が、手元のメモを見ながら読み上げる。
「そうか」
目暮が返事をするそばから、水の中の死体が引き上げられ、噴水脇のコンクリートの上に寝かされる。当然、もう息はない。
「後ろから心臓をひと突きか。これじゃ助からんな」
「せやけど、大人の男にしては小柄なほうやな。女性や子供が後ろから襲ったとしても、無理せんでもこの位置にナイフを刺せるなあ」
目暮に寄り添うようにして張り付いている服部が、目を光らせながら言う。
空には月がのぼっている。あたりも暗い。
そんな中、照明を使いながらの作業が続いている。
(この中庭は、ホテルの建物に四方をふさがれている。どの建物でも一階からはこの庭に入るのは自由か・・・・)
一方、中庭の真ん中あたりに立ちつくした新一は、四方をながめながら思案にくれていた。
(庭はだいたい正方形だな・・・・中央の噴水、四隅にある植木以外はすべてコンクリート・・・・)
ぐるりと一度、四方を見渡す。
ホテルの建物の構造はちょうどロの字型であり、それに囲まれるように中庭がある。中庭に面したホテルの一階はすべてがガラス戸となっており、どの建物からも自由に庭に出入りができる。ガラス戸の脇は四面ともすぐ大理石の廊下になっており、中庭を囲むようにしてガラス戸があり、廊下があるといった構造である。
一階はロビーとレストラン、二階から最上階の十五階までは、ひとつの建物を除いてすべて客室になっており廊下でつながれている。その客室になっていないひとつの建物だけは三階までしかなく、一階はほかの建物とつながっているものの、二、三階は独立した空間となっている。が、それも道理で、二、三階とも、先ほど、新一らが大挙して飛び出してきた結婚式関係専用フロアとなっており、式場や控え室があるからである。
月が顔を出しているのは、その低い三階までの建物の上であった。
雲一つない、満月の夜である。普段であれば風情があってよい月かとも感じられるかもしれないが、殺人現場においては月を愛でるどころではない。
「だれか目撃者はいないのか?」
「手分けしてあたっていますが、今のところはいないようです」
目暮の問いに、再度報告にやってきた白鳥が特徴的なクールな口調で答える。
「なにか被害者は憎まれていたとかいうことは?」
「それもちょっと調べましたが、被害者はどうも性格に問題がありまして敵が多かったようです。その意味では、動機のあるものは結構いるのではないかと」
「わかった、白鳥君。君はその線を洗い出してくれ。宿泊客にそういった者がいるかどうかもな」
「わかりました」
軽く頭を下げた白鳥は、またホテルの中へと姿を消してゆく。
「しかし、このレインコートは・・・・」
目暮は首を傾げている。噴水のそばのコンクリート上に意味ありげに落ちていた、黒色のレインコートを眺めながら頭をひねっていた。
(これには傷とかしみとか、なにか手がかりになるようなものはおまへんな)
服部はその物証をじっくりと観察している。
「警部はん、ほかになにか証拠はありまっか?」
「いや、いまのところはそれくらいだ、服部君」
「そうでっか」
こちらも思案にくれている。状況からいってどうも単純な殺人事件とは考えにくい。
「警部、わかりました。ホテルの従業員が、被害者が中庭に出ていったのを目撃しているのですが、このレインコートは、被害者自身のもので、そのとき被害者が着ていたそうです」
今度は高木だった。小走りにやってくるや目暮の前で直立不動で、中間報告をはじめる。
「それは本当かね?じゃあ、被害者は雨がふっていないのにもかかわらずレインコートを着て中庭に出て、そのあとわざわざレインコートを脱いだ後で、犯人に刺されたってことかね」
己れ自身で喋りながら、目暮は、まったく理解できないといった面もちで腕を組んだ。
「まあそれはそれでおいといてだ、そのとき、被害者以外に中庭にいた者はいないのか?」
「残念ながらいなかったそうです」
「じゃあ、犯人はいったいどこから現れたんだ?人間が隠れられるところなんかここには全然ないぞ。被害者が、誰かに罪をきせるために狂言自殺をはかったとしても、いくらなんでも自分で背中にナイフは刺せんし・・・・他殺の線しか考えられんのだが、被害者以外に誰かが中庭に入ってくるのを目撃したという人はいないのかね?」
「それも残念ながらいません。なんでも、この一階のガラス戸は、昼間は誰でも自由に出入りできるそうですが、日が落ちるとすべて鍵をかけてしまうそうですから」
ここで、高木は上司に話しかけながら、数歩ほどガラス戸のほうへ足を進めた。
「被害者はちょうどここのガラス戸から中庭に出たそうなんですが、そのときに従業員に声をかけて、戸を開けさせたそうです」
「なにか中庭に出なければいけない用事があったのか?」
「そこまではわかりませんが・・・・」
「・・・・ということは、事件当時、ここの扉以外は出入りが不可能な状態で、被害者以外に中庭には誰もいなかったし、入った者もいなかったということですね」
ここで新一は会話に割ってはいるかのように言葉を投げた。片手を口元に当てた格好で二、三歩目暮のほうに近寄る。
「工藤君、なにかわかったのかね?」
「いえ・・・・」
目暮の期待の声に、だがしかし、言葉尻を濁しながら新一は答えた。結論はまだ出せる段階にない。
(これはどう考えても妙だ・・・・)
思考はつづいている。
中庭に出ていく時に被害者は、従業員に扉を開けさせしかも、晴天にもかかわらずこの黒のレインコートを羽織っていた。さらになぜか、そのレインコートの上から刺されたわけではなく、レインコートを脱ぎ捨てた後で背中から刺された。
(でも、犯人はいったいどこからこの庭に入ったんだ?目暮警部のいうとおり、とてもこの庭に隠れるようなところはないし、この一つの扉以外に鍵は開いてなかった・・・・つまり中庭は事件当時、巨大な密室だったということになるな)
少ししめったような風が、黒い式服に白ネクタイのまま作業にあたっているひとどもをさわって、通り過ぎてゆく。上衣のポケットにブートニアをつけたままの、ひときわ目立つ正装の新一をも巻き込んで。
(おそらく、そのレインコートを着て従業員に戸を開けさせたっちゅう奴が犯人や。指紋がガラスについたら一発で被害者とは別人ちゅうのがわかるしな。そんで・・・・)
中庭に出て、被害者を呼び出すかなにかして殺害したあとは、自分が殺されたようにみせかけて逃走する。雨もふっていないのに黒いレインコートなどを着ていたのは、たぶん、犯人と被害者が別人だと悟られないようにするための苦肉の策なのだろう。
(入れ替わるっちゅーても、どんな方法やねんかなあ。しっかし、こんな目立つところで入れかわらんでも・・・・)
服部も、新一とほぼ同じようなことを考え描いている。こちらも推理力にかけては負けてはいない。何度も事件を解決してきただけあって、光るものがあるのは新一と同じである。
しかしながら。
例外は、いる。
「毛利君、毛利君はどうかね?なにか・・・・」
次に目暮は、小五郎に向かって話を投げた。が、その言葉は最後まで話されることはなかった。
「毛利君?」
「ううううう、蘭が・・・・蘭が・・・・うううう・・・・」
「・・・・・・・・・」
目暮は、絶句した。
新一や服部の思考も一時中断される。
そばにいた警察のひとどもが、いっせいにため息をつく。
小五郎は泣いていた。英理や出席者の手前、ポーズを決めて式場を出てきたはいいものの、また感情がこみ上げてきたのだろう。
(あーあ)
目暮はあきらめきったような目をした。これでは捜査の助勢どころか、かえって現場の邪魔である。
予想外の状況の出現に、新一ですらも凍り付いていた。
「・・・・あかんわ。毛利のおっさん、使いものになれへん」
数秒おいて、服部がひきつった笑みを浮かべながらいった。持ち前の気の良さでなんとか取りつくろうとしているのだろう。
「工藤っ、おまえのせいでおっさん、使いものにならへんねんで。なんとかしいや」
「なんとかしろって、おい・・・・」
「ま、おまえがかわりに事件解決しいや。・・・・おっさん、あっち行って休もな。蘭ちゃん奪った男なんか見たないやろ」
「・・・・・・・・・・」
酔っぱらいよりたちがわるいかもしれない状態の小五郎を抱えて、服部は現場を離れていく。
新一と目暮はそれを黙って見送るしかなかった。
「工藤君、とりあえず続きを・・・・」
「そうですね」
われに帰ったふたりは、苦笑いをうかべてもとの思考にかえった。
「・・・・警部、妙なことがわかりましたよ」
タイミングを見計らっていたのか、そこで冷静な口調がみたび中庭にひびく。振り向いた目暮はやってきた部下を見上げた。
「なんだ?白鳥君」
「宿泊客の証言なのですが、中庭で殺害死体が発見されたのと同じくらいの時刻に、月が欠けていたと」
「はあ?」
白鳥の静かな口ぶりとは対照的に、目暮は素っ頓狂な声をあげた。
「なんだって?もう一度いってくれんか」
「はい。このホテルにタクシーで来る途中だったそうですが、夜空をふと見上げたら、月が欠けていたそうです」
「月って・・・・今日は満月だぞ。月食があったっていう話は聞かんし、月はこんなにくっきりと・・・・夢でもみたんじゃないのか?」
そんなことが殺人事件と関係があるわけないじゃないか。
目暮はそういいたげに首を横にふった。
「それからもう一点。被害者は先週から一週間の予定で宿泊予約をしていたんですが、まったく同じ日にちで一週間、宿泊予約をしていた客がいました。しかも被害者は、何回かその客の部屋まで訪ねていったことがあったようで、これは従業員や他の客が目撃しています。トラブルをおこしたこともあったそうですが」
だが、今度の報告には注目せざるをえない。少し考え込むようなそぶりをみせながら、目暮はいった。
「ふむ、確かに怪しいな。一応話をきいてみよう。ちょっとその客を呼んできてくれ」
「はい」
白鳥はまたホテルの中に消えてゆく。
(問題は、犯人がどうやって被害者を人目にふれないようにここに呼び出して殺害したのかということと、どうやって脱出したか、っていうとこだな)
新一は、中断した頭脳を回転させはじめている。
(ここには争った形跡はないようだが・・・・)
「!」
そこで思わず目を見張る。
(そうか、殺害場所が別だとしたら・・・・)
かれは瞳をあげた。
からまった推理の糸がわずかにとけはじめる。
再び目暮から数歩離れて、横たわる死体の前にひざまずいた新一は、検屍中の鑑識の横から首を突っ込んで、その背中の傷口を丹念に観察しはじめた。
(傷口の血が凝固している・・・・間違いない。殺害されたのは別の場所だ。殺した後で、犯人は噴水の中に土門さんを投げこんだんだ)
この場所で殺されてすぐ噴水の中に放り込まれたのであれば、傷口の血液が凝固することはない。凝固しているというのは、刺されてから時間がたったせいだろう。
(従業員に扉を開けさせて中庭に出たのは犯人だ。犯人はあらかじめどこかに死体を置いといて、それと入れ替わって自分は逃げたんだ)
とはいっても、しかし、どのような手段で犯人は死体を運び込んだのであろうか。
ゆるい風が、中庭をふきぬけてゆく。
ホテルの灯りや中庭の照明に負けじとばかりに、月は煌々とあたりを照らしている。
(月・・・・月食でもないのに月が欠けた、っていうのは・・・・)
立ち上がった新一は、死体の側からはなれて夜空を見上げた。
明るい満月。それが欠けたという証言は何かを意味しているのだろうか。
「警部、さきほどお話した宿泊客の方です」
白鳥の声に振り返ると、もうひとりの人間が目に入る。どうやらさっきの話の人物をつれてきたようだった。
「いやあ、すみませんな。ちょっとお話をきかせてくださらんか?」
「ええ、かまいません」
うなずいたのは、身長が白鳥ほどはあるであろう大柄な女性だった。大体、年の頃は二十代後半から三十代といったところだろう、癖毛のセミロングの髪型と切れ長の目が特徴的な、どことなく英理を思わせる知的な雰囲気と整った容貌の持ち主である。
「私は警視庁捜査一課の目暮といいます。あなたのお名前は?」
「はい、相川といいます」
「では早速ですが、相川さん、あなたは、一週間の予定でこのホテルに宿泊されているそうですが、レジャーかなにかですか?」
「いえ、学会参加のためです」
「学会?」
「ええ、ご存じ無いと思いますが、私は西都大学で気象学の講師をしております」
(気象学?)
いつものように目暮のそばにそっと近寄って、何気ないそぶりで話をきいていた新一の、その頭のなかでなにかがひっかかった。
「・・・・で、失礼ですが、殺された土門さんとあなたとはなにか面識がおありだったのですか?このホテルでトラブルをおこしていますよね?」
「いえ、面識はないのですが、ひとりでそこのレストランで食事をしていたときに、その人がなにかと話しかけてきて・・・・感じが悪かったので無視していましたら、今度はいきなり私の部屋に押し掛けてきたんです」
「なるほど、それでトラブルになった、と」
「はい」
彼女はうなずいた。
「それで、今までは何をなさっておられたのですか?」
「部屋でずっと論文を書いていました」
「そうですか」
目暮は一度、大きく首をふった。しかしこれは単なる気休めにすぎない質問でもあった。シングルルームの宿泊客のアリバイなど、あってないようなものであるから、本人がいくら証言したところで裏付けにはならない。
「ちょっといいですか、相川さん」
それまで沈黙を守っていた新一が、ここで口を開いた。切れ長の目が驚いたようにこちらを向く。
「え?なんでしょう?」
「あなたは気象学者だとさきほどいわれていましたが、専門はなんですか?」
「高層気象学ですけれど・・・・それが何か?」
「いえ、ちょっと興味があるものですから。それで、どんなことを研究されているのですか?」
「そうですね、大気の状態を調べるのが主なテーマですけど」
「学会のためにこの一週間、こちらのホテルで実験かなにかなさったことはあるのですか?」
「いいえ、別に・・・・」
不思議そうな表情をかくそうともしないまま、相川は答えた。ただし、その表情の原因は、新一の質問内容より、新一の格好のほうにあったのであろう、彼女は質問がひととおり終わったとみるや、返す刀で問い返したのである。
「でも、あなたは一体?その服は?・・・・」
「ああ失礼、相川さん。かれは探偵の工藤君です。今、このホテルで結婚式をあげている最中だったんですが、こういう事件がおきてしまいましてな、協力してもらっているんですよ」
新一のかわりに目暮が答える。不意に、相川の目がわずかに曇ったのには・・・・新一はもとより、だれも気づくはずがなかった。
「・・・・そう、ですか。大変ね」
「いえ、そんなことはないですよ。・・・・参考になりました。ありがとうございました」
気の毒そうな目をする女性学者に、深々と一礼した新一はくるりと背を向けた。そして、そのまま中庭を後にする。向かった先は、フロントだった。
(おれの推理が正しければ、たぶん、あの人はうそをついている)
おそらく推理はまちがっていないと自らおもいながら、かれはガラス戸を開けてロビーに足を入れた。
「すみません、ちょっとおききしたいんですが、あの相川さんの部屋はやっぱり特殊なのですか?実験かなにかのために、ちょっと部屋の配置をかえたとかいうことはないんですか?」
「いいえ、部屋は普通ですよ。あの先生は部屋じゃなくて屋上で研究されているんです。学会の発表原稿に不備がみつかったとかで、気象観測のために屋上を使用したいとのことでしたので、特別に鍵もお渡ししてありますが・・・・」
(そうか、やはりな・・・・)
フロントマンの答えは自分の予想どおりだった。己れの推理が確信に変わる。
(あとは証拠だけだ)
新一はもう一度、警察関係者であふれている中庭に戻った。
「どうした工藤君?」
「いえ、警部。たいしたことはないんですが、ホテルの屋上を見たいんです」
「屋上?」
その途端、相川の顔が若干暗くなる。
「いいですか?相川さん」
「え、ええ」
うつむく気象学者に、新一はたたみこむかのように念を押した。
「屋上、って工藤君、わしにはなにがなんだか・・・・」
「きてもらえればわかります。あと鑑識の方もお願いします」
「う、うむ。わかった」
わけがわからないまま、目暮は返事をかえした。
(そろそろ、大詰めだ)
新一は、おもっている。自分の予想どおりであれば、証拠が出てくるはずである。屋上になんらかの痕跡が残っているはずである。
「・・・・・・・・」
終始無言のまま皆を先導するように歩いていった彼女は、エレベーターを降りると、その角にある階段をあがって正面の非常扉を開けた。
星の瞬く綺麗な夜空とは対照的に、灰色のコンクリートが広がる無機質な屋上は、暗い闇の中に無表情のまま横たわっている。
そのコンクリートの一角に、黒いビニールシートの張られた人為的な区画があった。なにか機材がその下にあるのだろう、シートがこんもりと盛り上がっている。
「ここが、あなたの研究所ですか?相川さん」
一歩踏み出した新一は、落ち着いた口調で女性学者を見つめた。
「このビニールシートの下は、研究用の機材ですね?」
口を閉ざす相手から目をはなさずに、つづける。
「え?研究?ここでかね?」
「ええ。相川さんは気象学者ですから、部屋の中よりこういった場所のほうが研究には適当なのでしょう。さっき、フロントに確認しましたが、気象観測用にこの屋上を特別に相川さんに貸したそうです」
問う目暮にたいし、間髪をいれずに説明した新一は一度視線をはずして、ホテルの中庭に面しているほうの手すりをちらりと見た。
「そうじゃないですか?相川さん」
「・・・・ええ」
ようやく、相川が返事をかえす。風に消え入りそうなか細い声で。
「この機材をみせてもらっていいですか?」
「・・・・・・・・」
月明かりのせいか顔が青白い。言葉のないままひとつうなずいた彼女は、まばたきもせずうつむいた。
「工藤君、相川さんの研究場所や資材を見せてもらっても・・・・」
またもや、目暮が質問を投げかける。気象学者の研究道具をみたところで、今起きている殺人事件となんの関係があるのだといいたげに。
が、新一は足下の機材を調べるように眺めながら、光る瞳で断言した。
「警部、お願いします。この機材の周辺と中庭に面したこのあたり一帯を」
「なんでだ?まさか、ここが・・・・・?」
「おれの考えが間違っていなければ、なんらかの証拠が残っているはずです」
「あ?・・・・まあ、わかった」
言葉をいったんきって意味ありげに鑑識のひとどもに目をやるかれに、目暮は、半ば不審におもいながらも指示を下した。
「鑑識さん、今、工藤君がいった箇所をお願いします」
どうやら、この屋上が怪しいらしい。
目暮には、中庭の死体とこの屋上がどういう関係にあるのかよく飲み込めなかったが、とりあえずこの名探偵のいうことに従おうとした。今までの実績からいって、事件解決とまではいかずともなんらかの有力な手がかりがつかめるに違いなかったからである。
「・・・・警部!見て下さい」
声があがる。
静かな空にやや興奮気味ともとれる声が、ひびいた。
「何だ?」
「出ました!これを見て下さい」
「!」
捜査の指揮をとるこのベテラン刑事は、その瞬間、息をのんだ。
一部の手すりからコンクリートの床へと、明らかに反応が認められる。それも、少量ではない。
ルミノール反応。
光っているそれは、疑うまでもなく血が流れたあとを意味していた。しかも昨日までは雨が降りつづいていたのであるから、少なくともその血液のあとは、今日のものであるとしか考えられない。
加えて、死体があった中庭ならばともかく、人の出入りのないコンクリート、普段でもよほどの用事がなければ人がいくことのない屋上で、これだけ多量の血液反応が出るのは奇妙のきわみである。
結論づけられるのは、ひとつ。
(ここが、殺害現場なのか?)
事実を目の当たりにして、新一と相川をのぞくすべてが驚愕の表情を浮かべた。
なぜ、屋上が現場なのか。仮にここが土門の殺害現場だとして、どうやって死体を忽然と、中庭の噴水の中に出現させることができたのか。この屋上から投げ落としていたら、もっと死体は損傷が激しくなっているはずであるのに、死体は、背中のナイフ以外とくに激しい外傷は認められなかった。一体どういう方法で死体を中庭まで運んだのか。
「工藤君、説明してもらえんかね?わしにはなにがなんだか、さっぱりわからんよ」
「ええ」
目暮と同様、あからさまに困惑している警察関係者の顔をながめながら、かれは大きくうなずいた。
「まず、御覧のとおりここが土門さんの殺害現場でしょう。今の段階では理由は深くはわかりませんが、被害者につきまとわれて困った加害者は、殺害のためにここに土門さんを呼びだした。ちょっと研究の手伝いをしてほしいとでも言ったのでしょう」
そしてのこのことあらわれた被害者が油断している隙をついて、後ろからナイフで殺害する。土門は男にしては小柄である、女性といっても加害者のほうが体格的には上であるのも有利に働いたのであろう。
そうして土門を殺害した後は、気象観測用に使っている気球に、シートにくるんで血が落ちないようにした死体を結びつける。これにはもっとも血が外に流れないですむ、心臓をひと突きという殺害方法である点も幸いしただろう。
ここまでの作業が終わったら気球をホテルの上空に上げ、加害者は、被害者がもっていた部屋の鍵を使って部屋に入り、被害者のものであるレインコートをかぶって一階に降り、あらかじめ録音でもしていたのだろう男の声色を使って、ホテルの係員に中庭のガラス戸を開けさせる。もちろんこれは、土門がこの時点まで生きていたと印象づけるための行動である。
「・・・・中庭に出た相川さんは、リモコン操作で死体ののった気球を噴水のへりあたりまで降ろして、噴水の中に死体を浮かべた後は、自分が着ていたレインコートを脱ぎ捨てて、死体のかわりに自分が気球にのって、屋上まで戻ってきたというわけです」
「ちょっと待ってくれ、工藤君。気球といっても、そんなものどこにもないじゃないか。それになぜ相川さんが気球を使ったとわかるんだね?」
「相川さんはさっき、自分で高層気象学を研究する学者だといいましたよね?それだったら、観測用の気球は必要とするはずです。だからこれだけの機材を持ち込んでいながら、気球がないのは逆に変なんです」
目暮の疑問に答えながら、新一はここでひとつ息をついた。
その場に立ちつくしている相川を横目でみながら。
「ここで重要なのは、ホテルに来る途中だったという客が見た、欠けた月という証言なんです。つまりそれは、ちょうどその黒い気球が月にかかったために、満月が欠けてみえたと解釈すれば、つじつまがあいます」
もちろんその気球は、自分が屋上に戻ってきた後で、証拠隠滅のために、シートやボンベ等の証拠品と一緒に、海上に誘導してそのまま海に沈めたのであろう。死体を海に捨てずに危険を冒してまで中庭に置いたのは、証拠機材とともに海に捨てて一緒に発見された場合に言い逃れができなくなってしまうためである。
さらに、都合良く目撃者がなかったことも幸運であった。
目撃者がなかったのは、本日の結婚式で一階のレストランはすべて披露宴や二次会のために借り切っていたため、必然的に宿泊客が食事をとろうと思えば、ルームサービスか外にゆくしか方法がなく、犯行当時、大方部屋にいるか外に出ているかしていたことであろう。また、このホテルの二階から上は、中庭に面した廊下には窓はところどころしかなく、その窓にはカーテンがひかれている上、高級リゾートホテルらしく個々の部屋には洒落たベランダがついており、外をみるのであればわざわざ部屋から出て廊下の窓などのぞかなくとも、綺麗な海が部屋から十分見えるのである。
従って、犯行が行われていた時、おおかたの宿泊客は、ベランダもしくは自分の部屋の中で海を眺めながら、ルームサービスの食事でもとってくつろいでいたのであろう。
「では、この手すりのルミノール反応はどう説明するかね?」
「気球が飛んでいかないように、手すりに頑丈なひも状のものでつないでいたのでしょう。たまたま土門さんの血がそれをつたって手摺りにまで到達し、あわててふき取ったけれどもあとが残ってしまった。水で洗いにいくこともできたけれど、あいにく警察関係者がこのホテルにいて事件がはやめに動き出してしまったので時間がなかった、というところじゃないですか?相川さん」
新一は無表情に女性学者を見やった。その場の全員の目もひとつに集まる。
「相川さん、これだけの証拠があるんです。お願いですから、何か言ってもらえませんか?」
「・・・・・・・・」
しかしながら、彼女は答えない。うつむいたまま、凍ったような表情を浮かべているだけである。
「・・・・しかし、工藤君。わしが解せんのは土門さんと何度もトラブルがあったのに、どうして相川さんは、いきなり土門さんを殺してしまったのかね?ホテルを変えるとかする方法もあったんじゃないのか?」
「警部、よく考えてみてください」
夜にきらめく瞳のまま、かれは再考を促した。
ホテル関係者の話にもあったとおり、土門は何度も相川の部屋におしかけたりしてトラブルを起こしている。この執拗さはとても普通では考えられない。このホテルではじめてあったというわけではなくておそらく、以前からなんらかの面識があったのだろう。また、これだけ不快な目にあえば相川のほうもホテルを変えるなりなんなりすればいいのだが、それをしなかった。ということは・・・・
「そうか。土門さんになんらかのことで脅迫されていたか、それともあのしつこさからみると、かれはストーカーだった、ということか?」
「おそらく、そうでしょう」
「もう、いいわ」
そこで突如として、女性の声が空を飛んだ。
「相川さん」
「あの男を殺したのは私よ。方法はそこの探偵さんがいったとおりよ」
夜空を見据えて、彼女は口を開いた。破れかぶれと言うよりは訥々とした、なにか感慨にふけるような口調だった。
「あの男は警部さんがいったとおりの男だった。興信所の所員くずれのストーカーよ。・・・・二年前くらいだったわ、私に交際を迫ってきたのは」
場が沈黙する。
全員が息をつめて、彼女を見つめる。一言でも聞き漏らすまいといったように、すべての目は彼女の口元に集中していた。
風が、流れる。
「そのとき私には婚約者がいて、式の日取りも決まっていたわ。でもそれは・・・・・・」
しかしここで、相川の表情が見る間に翳った。訥々とした口調が途切れ、声がうわずる。
「あの男、そうと知ると、過去の私の友人関係やなにやらすべて調べだして私の婚約者に教えたの。おかげで婚約も式もおじゃんよ。そうすると・・・・あいつはますます、自分と交際しろってしつこく迫ってきたわ。1日に何度も電話をかけてきたり、帰り道で待ち伏せしたりしてね」
「相川さん、それは警察には・・・・」
「警察にいっても取り合ってくれなかったわ。男女の恋愛のもつれまで面倒みれないっていわれてね」
ふるえる声が、夜空に吸い込まれるように消えてゆく。彼女の目元に水滴が浮かんだ。
無念さと怒り、また、かなしみ。
涙の意味はしかし、そんなありきたりの語彙では言いつくせないほど複雑で重いものであったろう。
「いくら引っ越しをしても、必ずあいつはかぎつけて、私を追ってきたわ。このホテルもそう。私があの男から逃れるには、もう、あいつを殺すしかなかったのよ」
強めの風が屋上を襲う。黒髪がそれに吹き上げられ、目元の滴が音もなく宙に舞った。
どうにもしようのないやるせなさが、洪水のようにあたりを浸食する。
救いを求めても手が差し伸べられられなかった場合の打開策など、誰も考えつかないだろう。追いつめられた羊は、ついには己れの手で事態を解決する以外に方法をもたなかったのだ。それが、自己を傷つける結果になると十分わかってはいても。
「もう、いいでしょ。このくらいで。警部さん」
彼女はふりかえった。その目にもう、涙はなかった。
「相川さん・・・・」
気の毒そうに目暮はいった。やむにやまれぬ殺人。だが、殺人は殺人だった。
静かに近寄った目暮は、彼女の隣に立つとその腕をとった。そうしてそのまま非常口の扉へ促すように、歩き出した。立ちつくす新一を後にして。
「あ、探偵さん」
そこで不意に相川がふりかえる。切れ長の目が新一を見た。
「せっかくの結婚式だったっていうのに、こんな事件を起こしちゃって、ごめんなさいね。でも、私も実はね、ここのホテルで式をあげる予定だったのよ」
赤いルージュの口元が悲しげに微笑んだ。
「何があっても倖せにしてあげてね。新郎さん」
「・・・・・・・・・・」
言葉が心にささる。
新一は、答える術をもたなかった。
誰を、と反問する必要はなかった。どんなことがあってもその『誰』かを不幸にはするなと、自分のようにはするなと、相川はそう言いたかったのだろう。
哀しい瞳がまたたいて、向こうに消える。その後を警察の関係者が追っていく。
(倖せに、か・・・・・)
かれは夜空を仰いだ。いや、仰がざるをえなかった。
事件は解決したものの、らしくもなく、かれはおもいにかられていた。式を目前にして破談になった、彼女のおもいはいかばかりだろうか、と。
そして、己れがやってのけた真実を探す推理という行為は、はたして本当に適当だったのだろうか、と。
被害者は、殺害された男ではなく、本当は彼女だったのではないだろうか。
「・・・・戻るか」
気をとりなおしてぽつりとつぶやく。
天にかかる満月が、高度をあげている。
風が、半分まくれあがったビニールシートをかなしげにたたいて、どこへともなく吹き抜けていった。
マホガニー色の式場は、もぬけの空だった。参列者は控え室にでも移動して時間をつぶしているのだろう、誰もいない薄暗い明かりのなかで足音ばかりが高くひびいている。
中央正面の出入り口からひとり、式場に入った新一は高い天井を見上げて、彫像のように立っていた。
雑多な会話が飛び交い、和やかな空気に包まれているだろう、明るい控え室に行く気にはなれなかった。もうしばらく心を落ち着かせる時間が欲しかった。
後味の悪さが、残る。
当初から容疑者もひとりに絞られてはいたし、内容的には単純で、それほど事実の解明に頭を抱えるような事件ではなかったにせよ、べつの意味で、重く、交錯した事件だった。
やるせなかった。
こういったケースもあるとはいえ、どうにもやりきれない気持ちがわきあがってくる。
「・・・・・・・・」
かれは数歩、無意識のうちに足を進めた。
そのときだった。誰もいないはずの室内に、耳慣れた声が聞こえた。
「新一?」
ほんの一時間ほど前、目暮らが出ていった会場端の係員用の出入り口。そこから現れたのは、いつもどおりの笑顔をみせる蘭だった。
一縷のかげりもない子供のような無心な微笑は、わかだまっていたおもいを、いとも自然に、真綿でくるむように包み込んでいた。
天使のような。
神が差し向けた救いの使徒のような。
いまの新一にとって、純白の衣に身を包み、やわらかな瞳でほほえみかける蘭の存在は、まさに天が遣わした使いにほかならなかった。
「事件は解決したの?、新一」
穏やかな瞳が再び呼びかける。が、かれはその問いには答えなかった。
かわりに、名を呼んだ。数え切れないくらい呼びかけたその名を呼ぶと同時に、駆け寄っていた。
「蘭」
「し、新一?」
抱きしめる。
かれは目の前の微笑を抱いていた。
どうにもやりきれなかった。
だから、救いの手が欲しかった。精神を癒すことのできる手が、ほしかった。
「・・・・・・・・・」
黙ったまま、呼びかけにこたえるかのように彼女はゆっくりと、両手で相手にふれた。
なにがあったのかとは訊かなかった。訊く必要もなかった。
言葉はいらなかった。
雰囲気から相手の心の傷を敏感に感じ取っていた彼女は、無言のまま、その躰を抱きしめかえしていた。
どういう事件でどういうことがあったのかはわからない。わからないが、新一の心がきしんだような叫びをあげているのは手にとるようにわかった。
だから。
少しでもかれの力になれるのであれば。
(蘭・・・・・)
新一は声もなくつぶやいていた。
蘭はあたたかかった。そのあたたかさが心にしみた。
いつでも、彼女はそうだった。木漏れ日のように優しく語りかけ、周囲を照らしていた。おもえば今まで何度、この手にたすけられたことか。
この存在がなかったら、おそらく自分はもっと違った人間になっていたに違いない。もし、蘭がいなかったら・・・・
「・・・・ごめん、蘭」
「べつにいいよ。それより、大丈夫?」
蘭は穏やかにわらった。
瞳を、上げる。
「・・・・ああ」
静かな声が天井に消えてゆく。
(もう、大丈夫なようね)
彼女はなにもきかずに、明るく、いつものようにはなしかけた。
「じゃあ、皆のところに戻らない?どう新一?」
「ああ」
しかしながら、そのとき。
「あー!こんなとこにおったんかいな、工藤!」
突如として、一気にまくしたてる関西弁がわんわんと式場内にこだました。
「バカヤロ、服部!」
新一は振り向いた。声の主はもうわかりすぎるくらい、わかりきった男だった。
「白鳥はんが戻ってきたから、もう戻って来るやろなー思うて待っとったらこれやがな」
「あ、蘭!ここにいたの?皆探してたよ」
中央正面の扉を開けて、服部の背後で便乗するようにいうのは園子だった。
「蘭ちゃん?ここにおるん?」
そのまた後ろから続くのは和葉の声である。
静寂に包まれていた式場は、複数の乱入者によってにわかに騒がしくなった。
「おるおる。おらんでええのに工藤もおるでえ」
事件発生の知らせで式場を飛び出して行ってから、かれこれ一時間ほどすぎている。割合スピーディーな解決だったにせよ、待たされる方としては長かったようだった。
特に服部にとっては、検証なかばで小五郎のお守りをさせられる羽目になったこともあり、消化不良かたなしといった気持ちが見え隠れしている。だからこそ、冗談ともつかないからかいにも似た台詞が、いつもより滑らかであるのだろう。
ペースに巻き込まれた新一のほうこそ、不幸だった。
「おれが悪かった、工藤。誓いのキス、おあずけさせてもうて。そやけどもうちょっと待てへんかったんかいな?」
今度はにやにやと、ただし嫌みのないさっぱりした笑いを浮かべて、服部は新一の顔を指さした。
「はあ?」
「見てみい、口紅ついとるがな。蘭ちゃんの」
「!」
あわてたのは当然、新一のほうである。心当たりはないが、今さっきの行為のせいで、どこかに蘭の口紅がついたという可能性は否定できない。
が、服部は思いきり楽しそうに続けたのである。
「・・・・なーんて、嘘やがな。しっかし、そないにあせりよったところを見ると、ほんまやったんかいな?」
「てめー!この、服部!」
「じゃあ、私、みんなに知らせてくるね」
東西の探偵が果てしなくいいあう中で、園子がやれやれといわんばかりに場を抜ける。
「ごめんね、園子」
「いいって!」
園子の後を追うように扉から式場の外へと足を踏み出した蘭は、そこでふと足を止めた。
月。
階段へと続く踊り場の窓から見える空は、月の光によって墨ではなく藍色に染まっているようにも見える。ただし、決してそれはホテルの明るい照明によるものではなく・・・・
「きれいね」
空を眺めながら蘭はひとりごとを口にした。
「どうした、蘭?」
後ろから新一の声が追ってくる。それに少しばかり振り向きながら、彼女は続けた。
「月がきれいだなって、思って」
「・・・・・・・・・」
服部との悶着はひとくぎりついたのだろう、隣にやってきたかれは、しかしそれにはなにもこたえず窓を見た。
『・・・・倖せにしてあげてね』
かなしい微笑みが、月と重なってシンクロする。
(わかってるよ、相川さん)
新一は声にださない声でつぶやいた。
月はもう、欠けることはないだろう。
そして・・・・・・
「工藤君、蘭ちゃん、式はじめるって」
和葉の声が聞こえる。
「行くか」
「うん」
ふたつの影がそこをはなれた。扉の向こうへと長い影が消えてゆく。
孤独な時間の終わりを意味するように。
(了) |