TIME CAN WAIT
 (とうとう、ここまできたか……)
 日がとっぷりと暮れた窓の外のパリの市街を見やって、ホテルの、割り当てられた一室で、日向は珍しく、柄にもなく感傷にふけっていた。
 時刻はもう九時をまわったところだろうか、正確にはわからないが、昼間の試合で疲れ果てたメンバーの面々は、多かれ少なかれ寝てしまっているに違いない。
 第一回国際ジュニアユース大会。
 予選落ちするだろうとの半ば当然のようだった下馬評を見事に覆した日本は、とんとんと順調に勝ち進み、ついには、西ドイツとの決勝戦を明日に残すのみ、となっている。
 (今日は、さすがにしんどかったな)
 つい数時間前のことがふと思い出されて、去ったはずの熱気が再び蘇る。
 まだ、試合の余韻はとどまっていたらしい。
 本日の準決勝、先程対戦した優勝候補の一角であるフランスは、かなり手強かった。いや、手強かったどころの話ではない。延長、はてはPKにまで縺れこみ、血みどろ汗みどろの総力戦となった挙げ句、辛くも勝利したのである
 「しんどかった」 ─────────────  さすがの日向もそんな感想をもらさずを得ない試合だった。
 月が綺麗である。昼間のにわか雨はなんだったのだろうと思ってしまうほど、空は澄んでいる。
 「あいつ、なにやってんだ?」
 彼は思い付いたように、チッ、と舌打ちをした。
 割り当てられた部屋の、寮でも同室の長年の相棒は、まだ帰ってきていない。大方、片桐か見上につかまっているのだろう、今日の第一の功労者であるところの男は今、部屋にはいない。
 先に寝ちまおう、とは思ったものの、どうも疲れ切っているはずなのに目は冴えている。
 (まあ、もうじき戻ってくるな)
 仕方無しに、ぼうっと、そのまま外を見やる。
 相手のことが気がかりであるのは、否めない。
 「あれ?まだ寝てなかったんですか」
 音を立てないようにそうっと扉を開けてはいってきたのは、その若島津だった。あんたのことだから、とっくに大の字になってるかと思ったんですが、と一人ごとのように言葉が続く。
 「……………」
 そのまま、すっと窓際に歩み寄る。
 日向は、振り返らない。
 「お前さ」
 「はい?」
 寡黙な影が、動いた。
 「どこ行ってたんだ?」
 答えは容易に予想がつくのを、あえて日向は問うてみた。
 薄暗い部屋に、月光だけが差し込んで、二人の横顔を浮かび上がらせている。
 「片桐さんにつかまっていたんですよ」
 ぽつりと。
 だが、こともなげに、微笑と共に言葉が帰ってくる。原因は────言わずとも知れている。
 試合終了と共に、顔面蒼白の片桐がすっとんでやってきて、息つく暇もないまま若島津をひっぱっていったのは、全員が知っていることだ。
 遠征二度目の病院行き。
 片桐のはなしは、その怪我のことだろう。
 ふと、日向は相手の手元に視線をはずした。
 薄暗い光の中、酷く反映して見える白い包帯が、妙に目に入って気にかかる。
 真白のそれは、サッカーをしている以上怪我は日常茶飯事で、テーピングやら包帯やらは見慣れているはずなのに ───────何故か、痛々しく思えてならない。
 自然、じっと凝視する結果となった。
 「ああ、これですか」
 即座に気付いて、若島津が言う。
 「たいしたことはないですよ。ただ同じ所を二度もやっちまったから……けれど」
 そこで、彼はいったん言葉を切った。
 「明日は、無理でしょうね」
 「!」
 涼しげな顔をして、若島津は言い切った。沈着冷静、いつでもポーカーフェイス、というのが彼の東邦での定石だが、しかし……。
 「………………」
 日向は何も、言えなかった。
 『無理でしょう』などと言う言葉は死んでも吐かないのが、この相棒の気性である。何があっても決して、その類いの台詞を吐くような人間でないことは、自分が一番よく知っているし、事実、長年生活を共にしてきて一度たりとも聞いたことはない。
 「酷い、のか?」
 あれだけの怪我だ。酷くないはずがない。が、あえてそう尋ねざるを得ないほど、相手の態度は静かだった。
 静かすぎるほど、静かだった。
 不気味、と、言って良いかもしれない。
 「……………」
 若島津は、答えなかった。澄んだ目をして、黙って見返しただけであった。
 瞳は告げている。
 なんで、こんなことを言うのか、と。
 感情を表にださない彼であるが、ただ一つ、それに反して目は正直に、気持ちを物語る。
 「……ドクター・ストップです、日向さん」
 ゆっくりと、言葉がはきだされる。
 ということは。
 明日の出場は無理だという意味になる。
 それと察した若島津は、さらに継いだ。
 「明日は若林で行くだろうと、片桐さんが」
 「……………」
 訥々と語る相手の一言一句を、身動ぎもせず日向は聞いている。
 ここまできて、負傷交代である。
 (俺だったら……)
 ふと考える。
 自分だったらどうだろう。
 頭の隅で、ちらと思うだけで、非常な悔しさが込み上げてくる。
 若島津は……そう思っていないわけがない。悔しくないわけがない。それを意志の力で水面下に押しやり、あえて無表情を装っているのではなかろうか。
 これは彼だから出来ることで、日向であったならばまず無理な話だった。
 「………………」
 口を開こうと試みるが、何と言ったらいいのか分からない。この際、下手なフォローはかえって、相手を傷付けることになる。
 もとより語彙力など持ち合わせていない日向は、黙り込んだ。
 相手の気持ちを察して。
 「…何も、あんたが落ち込むことないじゃないですか」
 声を失った日向のとなりで、割合元気そうな声が響く。
 もう、割り切ってしまったのだと。
 闇の中できらりと光る黒い瞳は、言っている。
 「若林に、最後くらいは花もたせてやらないとね」
 物は言い様である。
 (そりゃ、俺だって出たいのは山々だ…)
 最初は悔しかった。他の誰にでもない、怪我などした自分に。
 しかしながら、今は不思議なほど冷静だった。
 悟りにも似た心境だった。
 悟り……そうなのかもしれない。これは一種の開眼かもしれない。
 (今は、小さいことに拘っている場合じゃないな)
 突如として彼の頭を掠めていったものは、思い出されたのは、翼の一言だった。
 『俺たちの力で、日本をW杯で優勝させよう!』
 小学時代から一貫として翼が言い続けている、言葉。
 (!?…ワールド・カップ……)
 身体の中で、何かが弾けた。
 自分たちの目標はなんだっただろうか。
 この国際ジュニアユース大会で勝つことが、最終目標ではなかったはずだ。この大会は、あくまで、その目的に辿り着くまでの通過地点にすぎないのだ。
 W杯。
 W杯での、日本の優勝。
 『俺たちの手で、日本を優勝させるんだ!』
 自分たちの宿敵チームの主将であり、かつ、違った意味での一種のライバルであり、今はこの全日本ジュニアユースのキャプテンでもある翼が、なにかと言えば繰り返している文句。
 「悔しくないと言ったら嘘になりますよ。けれど…」
 「?」
 何もいわずとも続きを、と日向の目は促している。
 「目標は、ワールド・カップですよ。その為にも、明日あいつには、若林にはしっかりやってもらわなければね」
 目が、光った。
 それは、不敵な笑みでもあった。微妙に口元が歪んだのは、自信ゆえであろうか。
 明らかなる敵愾心、および闘争心。
 若島津のその視線は、試合中の激しい瞳、翼に対して日向が向ける厳しく熱い、勝利へのための視線と同一のものであった。
 彼は、感情のみで先程の『無理』なる語句を吐いたのではなかった。
紛れもない自信と強い意志 ───決して負けぬという──の持ち主、それが若島津であり、かつ、次への跳躍のバネへと昇華させてしまう力をも兼ね揃えている。
 にやり、と。
 不敵に笑う彼は、はかりしれぬ強固な何かをもっている。
 若林に実力では劣るなどとは思っていない。ポジションは、奪われたら奪いかえす。
 そのくらいの強さがないようでは、これからの闘いに参戦することは到底不可能である。
 (W杯か……)
 かえってその単語にはっとしたのは日向だった。
 そうだった。目前のことに気をとられがちで、迂闊にも失念していた日向はその単語で、我を取り戻す。
 現に皆で誓ったではないか。世界を目指そうと。
 そう、これは前哨戦なのだ。
 夢は、目標はW杯なのだ。
 挑戦。夢への挑戦。
 (翼も、そうなんだろうな)
 若島津と同様に、ふと永遠のライバルであったものの、何度も聞いた台詞が浮かんできて、日向は改めて、己が今まで相手に勝てなかった理由をひしひしと感じていた。
 翼の頭にはブラジルにいってプロになること、そして最終的には日本のW杯優勝のことだけしか、はじめからなかったのだ。
 国内での中学生大会の試合は、あくまでそれに達するまでの通過点…………。
 『翼は、もっと大きな心でサッカーをしていたんだ……』
 ほんの少し前の熱い空の下で、日向が感じとり悟った 『もっと大きなもの』というのはこれだったのだ……。
ああ、だから ───────────────
 数年前から聞いている文句を、つい目の前にとらわれてしまって事もあろうに忘れさっていた彼は、ここにきて改めて思うのだ。
 細かいことに拘っているのではなく、世界を見ようと。
 (明日は、負けるわけにはいかない)
 だからこそ、明日の西ドイツ戦は、何が何でも勝たねばならない。それが、W杯への第一歩なのだから。
 部屋の中はしんと静まり返って、物音一つしない。
 暗闇の、但し月光に照らし出された薄闇の中に、二人は身動ぎもせず立っている。
 それぞれの、異なった、または同一の思いを抱いて……。 互いの考えていることは、理解できた。
 目的は同じだ。
 ワールド・カップへ。
 ただ、それへの栄光へ。その険しい道は、一歩踏み出されたばかりなのだ。
 「若島津」
 無言の世界が不意に、日向をして崩壊せしめられる。
 真摯な、双方の瞳がぶつかった。
 「W杯、だな」
 「当然です」
 明日のジュニアユース大会決勝は、何するものぞ。
 (勝つ、絶対に勝つ)
 それが全ての夢への第一歩……。
 そこから、全ては、はじまる。
 にや、と。
 口元が砕けた。
 その大きな夢の達成については、回りのものは本当に小さな事なのだ。
 若島津は思う。ポジション争いは、どこでもあることだ。今回は怪我に泣いたとしても、決して誰に劣るとは思っていない。
 力の上の奴が存在したならば、そいつを抜けば良い。
と、簡単に言い切ることは出来ないが、むしろ第二の座にいてこそ強大なトップを追い詰めることができよう、というものである。
 むしろ、ライバルは存在したほうがいいのだ。日向に翼がいたように、好敵手がいてこそ倒しがいがあるというものだ。
 要は、W杯。
 (勝負は、そのときだ若林)
 心中で呟く。
 残念ながら、今の時点では若林のほうが実力が勝っていることを、認めざるを得ない。けれども、それは、三年間も西ドイツにいてサッカー漬けになっている男と、日本において普通に中学生をやっているものとを比較するほうが無理な話であって、例えば、もし若林がずっと日本で、南葛にいたならば、あるいはその力は、若島津のほうが勝っていたかもしれない。
 呼吸さえも忘れ果てたかのような、静まったはりつめた空気が、二人の間を流れて行く。
 それが、和らいだ。
 「今回は、敵に塩をおくりましょう」
 GKの座は明け渡したのではなく、譲ったのだと。
 戦士の目が、そこにあった。
 「ちょっと喋りすぎましたね、もう寝ますか。明日もありますし」
 目線をそらせて、彼は続けた。
 (本とに、話すぎたな)
 自らのことをこんなに言うとは、やっぱり今日は色々なことがありすぎたせいで、きっと疲れているのだ……。
 (らしくもないな)
 半分自己嫌悪に陥りながら、日向に声をかける。
 このことは、また考えよう……。
 「……日向さん?どうしたんですか?」
 返事もしないで立ち尽くしている相棒を不審に思って、尋ねる。
 「気分でも悪いんですか?」
 「いや……」
 自分のほうの思考なるものは、すでに結論をみている。 だが、日向も何か、ひっかかりをもっているのだろうか……。
 「いや、お前のその怪我じゃ、確かに明日はGKは若林になるだろうが……」
 落ち着いた声が発せられた。            
 「はい」
 「それで、監督がいきなり若林を出すと言ったところで、皆が納得すると思うか?」
 「!」
 否、しない。実力からいって表面上は認めても、決して腹のそこでは否認するだろう。
 チームワーク。松山十八番のこの語句は、かなり重要な要素を成すものだ。
 (それは、いえるな……)
 力はあるにせよ、あれだけ自分達に文句のつけ通しだった若林を、おいそれとメンバー達が認めるわけがない。
 (でも……)
 うなづきつつ彼はまた反面、別のことをおもった。
 改めて、感じる。
 日向は将なのだ。自分でも自覚はないのだろうが、常に、自然にチーム全体を眺める視観をもっている。
 今の台詞はその証明にもなるかもしれない。
 しかし、いまはともかく。
 若島津は己の思案を解放した。
 「それは言えますね。あれだけぼろぼろにいわれて、腹を立ててない奴はいないでしょうね」
 「ああ」
 明日も全力で闘わねばならないのに、チームのなかにわかだまりを残していて、一体どんな試合ができるというのだ。結果は、目に見えている。
 日向は何事かくぎりがついたように、瞳を上げた。ゆっくりと振り向いてみせたその目の澄んだ輝きが、再び光を増して行く。
 「俺は、だから明日全てを皆に喋ろうと思ってる……奴の本音ってもんを」
 「?」
 「これは翼しか知らねえことなんだが、俺が偶然聞いちまったんだ」
 「どういうことです?」
 これはまったくの初耳であった若島津は、首を捻って相手に疑問を投げた。
 「……あの嫌味は奴の本心じゃねえんだ。あの馬鹿野郎、わざと憎まれ役をかっていたんだ」
 「!?」
 言葉に詰まって、代わりに、その気持ちを代弁するかのように見開かれた相手の目に向かって、なお日向は言葉を継ぐ。
 「チームを強くするため、だと」
 「……………」
 「俺は、そいつを明日のミーティングで、全部ぶちまけてやるつもりだ」
 奴の弁護なんざするのは不本意だけどな。
 彼はそう付け加えると、なんとも言えぬ、苦笑に近い笑みを浮かべた。
 明日は勝つのだ。
 ただ、勝利のために、と言うものではなく、その後ろにあるとてつもなく大きい目標のために。
 W杯、夢への第一歩。
 だから、あえて全てを暴露してやるのだ。
 「何て野郎だ…」
 思いもよらなかった事実を目の前の親友の口から聞かされて、思わず若島津は、感嘆とも拍子抜けともつかぬ声を漏らした。当然の反応である。
 (若林め……)
 同時に直感する。
 若林もこの大会ではなく一足飛びにW杯、世界を見ていたのだと。
 敵ながら、やる奴だ。
 若島津の口元にも、同じく、苦々しい笑みが浮かぶ。
 「うまく奴にのせられたって訳ですか、俺達は」
 「そういうことになるな」
 「………………」
 日向は全てを明日全員に告げる、という。そうすることによって、若林とはっきり敵対していた日向がそれを言うことによって、チームの雰囲気も変わるだろう。勝利のために一丸となるだろう。
 決して目前の栄光を掴むためだけではなく、遥かなる悲願の達成のために。
 「さて、と」
 軽く息をはく若島津の前で、日向が一度のびをした。
 そろそろ、思考は尽きたらしい。否、頭を使ってあれこれと思案したのでよけい疲労した、と言ったほうが正しいかもしれない。
 「寝るとするか」
 「そうですね」
 答えて、若島津も首を縦にふる。
明日のことは、誰にもわからない ───────────────


 あけて、翌日。
 第一回国際ジュニアユース大会最終日は朝から晴天に恵まれ、まさに決勝戦に相応しい日和となった。
 「よかったなあ、いい天気になって」
 「ああ」
 日はもう高い。食事の後のミーティングは、ホテルの近くの公園で行われることになっている。
 抜けるような空の下、様々に会話を交わしながら、全日本メンバーはぞろぞろと連れ立って、そこに向かって思い思いに歩を進ませていた。
 「監督、ミーティングの前に皆に渡して下さい」
 「?なんだ?」
 見渡すかぎりの青空のもと、勢揃いしたメンバーの前でただ一人、その中にとけ込めていない、どこか違和感をもつ西ドイツ在住のGKは、そう言って紙片の束を監督・見上に渡した。
 (これは……西ドイツチームの資料……)
 目を落とした見上は、内心驚きながらも感心していた。いや、それは見上だけではなかった。渡されたメンバー達も紙を一枚二枚と見比べては、声にならない声を上げている。
 「……全部を頭にいれる必要はないが、自分がマークする相手だけはきっちりつかんでおいてくれ」
 若林の説明する声が聞こえてくる。
 (まったく、こんなもん作るなんざ…)
 くいいるように、そのデータ表を読んでいた日向は思った。
 (どうしようもねえ奴だな、てめえも……)
 一読して視線を上げる。
 なんだかんだ言ったところで、無茶苦茶に憎まれ口を叩いていたところで、若林も日本の勝利を願ってやまないのだ。でなければ、こんなものを作るはずがない。
 真実を知らないほかのメンバー達は、さぞかし困惑したことであろう。真相を知っている日向でさえも、複雑に思ったくらいであるから。
 「……とうとう決勝戦までくることができた。今日も今まで通り、精一杯のサッカーをみせてくれ。それだけだ」
 ざわめきが一通りおさまったのを見計らって、見上はおもむろに話しはじめた。とはいっても、話はこれだけだった。確かに、ここまできた以上、変な演説は不要である。
 「それから、GKのことなんだが…」
 「!?」
 一瞬ためらって、全日本ジュニアユース監督は言葉尻を濁した。GK、という単語であたりのムードも一転して硬化する。
 「今日の試合、若林を使おうと思う」
 「か、監督、俺はこの試合には…DFとの連係プレイも練習していませんし、それに俺は皆に……」
 『皆に』の後はどう言いたかったのだろうか、狼狽気味に、皆の反応よりいちはやく立ち上がった若林の言葉は、だが、若島津によって遮断された。
 「若林しかいませんよ」
 えっ!?
と、思ったのは張本人若林のほかに、もう一人。
 (若島津、お前…)
 知らず知らずのうちに、日向の目が光を帯びる。
 (言いやがったな)
 振り返らずとも相棒の気持ちは、考えは、手にとるようにわかった。
 話は、続いている。
 「今日の試合、ゴールを守れるのはお前だけだ。頼んだぞ、若林」
 「若島津…」
 冷静な若島津の声色と、少々未だうろたえ気味の若林の声のトーンが、対照的なコントラストをなしている。
 日向は、すっと立ち上がった。声を、はり上げる。
 「そうだ。全日本のゴールを任せられるのはお前しかいねえ」
 正GK若島津が、若林を推した。加えて今まで、まったく正反対の、極端に言えば対立の立場にいた日向がそれに同意することによって、少しは雰囲気も変わろう、というものである。
 (これはてめえの援護じゃねえ、俺達の夢のためだ)
 でなければ、誰がてめえのフォローなんざ……。
 とりあえず、個人的感情は頭の隅に押しやって、後を続ける。
 「日向…」
 予想だにもせぬ(これは本当に彼にとっては意外も意外だったろう)日向の台詞に、若林は目を白黒させて絶句した。これでは、何と言っていいか迷うところであろう。 
 「確かに、お前の今までのやり方に腹をたてている奴もいる…けど、そんなものはグラウンドに立てば消えちまう」
 自分も、そうだった。
 しかし、フィールド、大観衆の見守るあの闘いの舞台は独特のムードを醸し出す。輝いた大きな舞台は、その中にいるものを戦士へと変化せしめる。
 そんな、言葉では言い表せぬ何か、がそこには存在するのだ。一度立てば、二度と忘れえぬ特別な空気が……。
 「………………」
 メンバー達はあっけにとられた、といった様子で、固唾を飲んでこの光景を見つめている。
 そう、グラウンド。そこに立てば、ちっぽけな個人の醜い感情など消えるのだ。なぜなら……目標は一つだから。希望は、夢は、勝利への気持ちは皆一つなのだから。
 チームのためにプレイするかぎり、チームワークは乱れやしない。
 なぜなら、このチームで、このメンバーでW杯を目指すのだから。ちょっとやそっとで崩れてしまうようなチームワークでは、この先戦い続けられるはずもなく、その前にこの大会、全日本というチームは既に予選で姿を消していたであろう。
 「それに、聞いちまったのさ、翼とお前の会話」
 「日向くん」
 鋭い視線を若林に投げつけて、翼が脇から声を発するのにも構わずに、日向はあえて、真相を暴く刑事のように冷静にはなし続けた。
 「若林さん」
 「若林…」
 はじめて、聞かされる真実……まわりの声が一斉に上がった。
 「そうだったのか」
 「出ろよ若林」
 「そうだよ」
 修哲トリオをはじめとして、ほとんど全員が同じ意味の語を叫ぶ。
 氷解。
 全てはここに消えたといってよい。最後の小さな氷の塊は溶けさり、水となって大海に帰したのだ。
 (世話のやける野郎だぜ、若林…)
 軽く息をはいて視線を逸らす。これでいいのだ、と。若林がこれについてどう思うにせよ、これで正解なのだ。
 夢をかなえるために、自分はここに立っている。
 W杯優勝なる、大きな目標に向かって歩んでいる。
 志を同じくするもの達と共に、この大地を踏みしめている ───
 「日向さん」
 一気に盛り上がり、ざわめく集団の中で、不意に彼の隣にやってきたのはいうまでもなく、若島津である。
 「何だ?」
 「…いや、なかなかの演説でしたね。俺は感動しましたよ。三杉も拍手していましたし」
 大真面目に言う相手の瞳は、それでも笑っている。
 「馬鹿野郎、何言ってやがる。こっちは疲れた」
 「はいはい」
 当惑したように、ちらっと真っ青な空を仰いだ日向に対して、若島津は少し肩をすぼめてみせた。
 「……………」
 決勝戦。
 そして、W杯へ。
 その長い長い道程は、はじまったばかりなのだ。
 「決勝か…」
 「まあ今日は、とくと観戦させてもらいますよ」
 日向の、ふと呟いた語を聞きつけて、若島津が不敵に笑う。
 (今日は若林、お前に譲ってやる)
 ここまで勝ってきて、若林で敗れるなんて事は許されない。
 「まあ、見てろって、負けやしねえから」 ─────────  応じた日向は、これもまた瞳の奥に強烈な光を宿して、きっぱりと言い切った。
 勝利する。
 全てのものの、夢のために。


 (了)



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