街は暗かった。
普通なら賑わっているはずの市街は、薄暗いちいさな光に包まれていた。
生気も、なかった。
数々の店かひしめいている大通りにも、生き生きした雰囲気はなかった。
アメリカ軍の空襲にそなえて灯火制限がされている上に、物資も極度に不足していた。
どことなく重苦しい空気に覆われた大通りを大手をふってかっ歩しているのは、一般市民に厳しい捜査の目を向けている憲兵や警察のものくらいであった。
あの戦国の時代のほうがまだ、活気があった。
と、直江はおもった。国内が戦乱に荒れてはいても、戦国大名たちは経済力を高めるため、こぞって領内の産業を奨励し、保護し、育成した。
(それが、どうだこれは?)
この状況は、とても同じ日本とは思えなかった。いまは…この状態では…惨澹たる暗い未来しかないように思えてならなかった。
謙信公が命じた使命も、こうして考えるとなにやら色あせて見えた。どうにもしようがなかった。
「………………」
妙に閑散とした通りを、三郎と直江は歩いて行く。一言も言葉をかわさぬまま、どこへゆくという目的もなく、歩いて行く。
書生と軍人のふたり連れを振り返る人はいなかった。人通りも多くはなかった。
三郎は、自分が睨まれていることなど気にもしていないように、先をゆく。直江のいったことも忘れているようでもあった。
直江も、気にしていない。三郎に、また忠告しようとは思わなかった。
(なにかあったら、景虎様は自分が護る)
そう、考えていたからだ。
月が、ふたりの横顔を青白くうつし出す。溶け切らずにそこここに残っている雪が月の光に反射して、白く浮き上がったように見えている。
風が、ふいた。
「直江」
不意に、三郎が歩を緩めた。
「はい、三郎さん」
直江が、答える。
「俺たちの…使命は何だったか…お前…わかるか?」
「三郎さん?」
あまりの意外な問いに、直江は思わず目を見開いた。
冥界上杉軍の頭領であるあなたがなにをいわれるんですか、と、もう少しで口をついてでそうになったフレーズを、寸前で噛み殺す。
「俺たちが、何回も換生しているわけはなんだったのか…お前はわかるか?」
三郎は直江に構わず、言葉を次ぐ。
「三郎さん」
一体景虎様は何を言おうとしておられるのだろうと、直江はおもった。換生している理由、それはすでにわかりきったことではないか。景虎自身が、もっともよく知っているではないか。
彼は、不可解の念を崩せなかった。
「俺は…共産主義者の疑いをかけられている。最も、共産主義がお前たち、軍の言うように悪いものなのか、それともいいものなのかはわからない。だが…」
歩きながら、一言ずつかみしめるように三郎は話す。
「今の状態は…怨霊もほとんどいない。俺はほとんどおたずねものだ。俺は…直江、お前の荷物になっているだけだ」
「景虎様ッ!」
直江は、混乱した。一体このひとはなにを考えているのか。どうしてしまったのか。
口から出た叫びは、三郎の本来の名を呼んでいた。
「そうだろう?直江。現世では『力』も使いようがない。『力』の使う道のない上杉景虎は必要ない」
三郎は淡々と語る。直江に話していると言うよりは、自分に言い聞かせているような口調であった。
「景虎様」
「お前は、俺を庇う。そこまでして俺は庇う価値のある人間か?」
「あります。あなたは私たちの主君です。家臣が主人を守るのは当然です」
「違う、直江」
そこで初めて振り向いた三郎は、足を止めた。
「それは三五〇年前のことだ。たしかにあの時代はそれで正解だったのかもしれない。けれど、今は…今の俺にはそんな価値はない」
真一文字に口を引き結んだ三郎は、きっぱりと言った。目が光る。紛れもない王者の光を宿した瞳が、混沌とした影のなかできらりと輝いた。
「義父上は、現世を闇戦国から守護し、現世の人々を守るために我らにこのような特別な『力』を与えられた」
「はい」
直江が素直に頷く。景虎の義父である上杉謙信、その姿はすでに三〇〇年を経た今でも網膜に焼き付いている。清浄な気とともに“軍神”は、戦場を駆けていた……
「直江、だが今は……」
三郎がその先を続けようとした、矢先だった。突然にして静寂な気が破られたのは。
「景虎様!」
「!」
はっとしたように、直江が後ろを見やる。ほぼ同様に、三郎も瞬時にして事態を悟った。
「景虎様ッ!」
ふたりは走り出した。端々に氷がかった雪の残る道を、駆け出した。
背後から聞こえてくるのは、複数の軍靴の音。さらに、怒鳴り声。
「待てッ!」
「笠置だ。あれは笠置三郎だぞッ」
そのようなことを口々に叫んでいる声が、追ってくる。
憲兵だった。なにか証拠を掴んだのかもしれない。おそらく、三郎を探し回っていたのだろう。いや、証拠などなくとも勝手にでっちあげたのかもしれない。軍はそんな理不尽なことも可能にできる。
いずれにしても、三郎は追われていた。追われる身であった。
「直江ッ、俺を掴まえろ」
「何をいうんですか、景虎様」
まなじりを決した直江は、そこでいきなり立ち止まった。そして……。
カッ。
軽い念波が地面に叩き付けられた。
「うわッ!」
地面の小石や砂が、宙に浮く。浮いたそれはたちまちにして、憲兵たちの正面を砂嵐のように襲った。
「くっ…待てッ!笠置ッ」
叫ぶ声が聞こえてくる。
「景虎様、こっちです!」
「直江……!」
直江が先に立って路地に入り込む。三郎の腕をしっかとつかんで、角を曲がろうとしたその矢先だった。
「待てッ!くそっ!」
「待て、笠置ッ!」
ガンッと。冷たい音が複数響いた。言うまでもなく銃声であった。憲兵たちが発砲したのだった。
「つッ!」
「直江!」
次の一瞬、直江が呻くような声をあげた。同時に、二の腕を押さえる。
冬の風に、鮮血が舞った。流れ出る赤い液体が、したたるように地面に落ちた。
「直江ッ」
様子に気付いた三郎は、目を見開いた。
「このくらい平気です、景虎様、掠っただけです。それよりはやく…!」
それでも直江は冷静を保ちつつ、言った。
こんなことは当たり前のことだ。今までこうして、何回となく景虎を守ってきた。主を守るのは当然のことだ。
だが、そのように自分の行動を定義づけるたびに、例えようのない甘い疼きが、胸の奥底から吹き上がってくるのを否定できなかった。
ーーーーーーーー 愛して、いるから。
それは、事実だった。真実だった。だからこそ……
「こっちへ、景虎様」
直江は、かぶりをふった。思いをはらうかのように頭をふった。そうして三郎の案内役をつとめるべく手を引っぱった。 走る。
北風が、流れる。
街灯もない道を、彼等は駆けた。何度も角を曲り、幾度も細い道を抜けた。
「はやく!」
「……………」
三郎は走っていた。直江に引かれるまま走っていた。なにも考える余裕はなかった。
道を、曲がる。三郎はもう、自分がどこにいるのか皆目わからなくなっていた。どのくらい駆けたのかもわからなかった。
時が、流れた。
幾つめかの路地を入ったところで、彼等はようやく立ち止まった。
「…もういいでしょう。ここで、しぱらく様子を見ましょう」
多少息を乱しながら、直江はいった。
「大丈夫ですか?…三郎さん」
肩で息をつく三郎を支えるように、手をまわす。
「いい、直江。それよりお前のほうこそ大丈夫か?」
しかし、三郎は軽くその手を払った。荒い息をついて、それでも相手を睨むように見つめながら、袂から布を取り出す。
「三郎さん」
「……………」
呼び掛けには答えず、直江の傷口を縛り付ける。目を患部に落とし、器用に手を動かす。
「三郎さん」
相手の呼び掛けに、三郎は重い口をようやく開いた。思いが、込み上げた。
「直江、お前なんで…」
なんで、あんな真似をしたのか。なぜ、自分を庇ったのか。一緒に逃げたのか。そうしなければ、拳銃で撃たれることもなかった。怪我をすることもなかったのだ。
口元を、ふるわせる。いいかけた言葉は、中途でとぎれた。 今の直江の一部始終は、明らかに憲兵たちに対抗するものだった。そんなことをすれば、直江は軍にいられなくなる。現世の直江信綱は軍の一員である。それなのになぜあんなことをしたのか。
憲兵たちも、見ていたはずである。軍人が『笠置三郎』と一緒に逃げるのを。それが憲兵将校であることも。少し調べればその将校が、直江信綱こと立花中尉であることもわかるはずである。
いやしくも憲兵隊の将校が共産主義者と、逃亡。そんなことはあってはならなかった。絶対にあってはならなかった。最悪の場合、直江は軍法会議で死刑である。軍は、共産主義を排除しようとしていたのであるし、もしとことんまで逃げるとしても日本全国、軍の手の及ばないところはないのだ。
「いいんです、景虎様」
三郎のいわんとしたことを察した直江は、首を横にふった。銃弾のかすった、腕を押さえながら、この場にはそぐわぬ穏やかな面持ちで、直江は微笑を浮かべたのである。
「いいってお前、何をいってるかわかっているのか?」
「ええ、わかっています」
「わかってるって、それなら」
「景虎様」
まったく理解できないといいたげな顔をした三郎の言葉尻をもじったかれは、毅然とした口調を放った。
「あんなことをしたら、軍にいられなくなるといいたいのでしょう?景虎様。…ですが」
ここで直江は、ひとつ息を吸い込んだ。
「ですが、私には軍よりあなたの方が大事なのです」
「直江!」
三郎が、怒ったように声を張り上げる。が、それには構わず続ける。
「当然でしょう?さっきも言いましたが、三五〇年前から貴方は私の主君であり、謙信公から使命を与えられた我々上杉軍を束ねるひとなのですから」
ーーーーーーー あなたのほうが軍なんかより大事です。
そう、直江はもう一度繰り返した。三郎に訴えるように、ひとつひとつ諭すように。
目を、見つめた。
追手の憲兵たちはどうやらまいたようだった。軍靴の気配は微塵もせず、ただそこには、月の光に照らされた三郎と直江の長い影があった。
雲が、流れた。
静寂が、流れた。
「!!」
「!?」
ところが……現状はまたも三郎に口をひらかせる暇を与えなかった。突如として、静かだった冬の空に、けたたましいサイレンの音が鳴り響いたのである。
「空襲、か…」
空襲警報。サイレンは間違いなく空襲を告げていた。
街全体がにわかに騒がしくなりはじめた。ざわざわと動き出す風が、恐怖を暗示している。
「空襲だッ!はやく…」
どこかで男の怒鳴る声がした。がそれも少しの間で、家々から走り出す人の足音や喧騒ですぐにかき消されていった。 人、人、人…。
ごく短時間で、通りは、逃げる人の波で埋めつくされた。 はるか上空で、特徴的なB29の爆音がしている。と見る間も無く、あちこちに焼夷弾が落下しはじめた。
ぱっと。
あっというまに方々で火の手が上がり出す。めらめらと広がる火は瞬く間に、四方八方にその面積を拡大しはじめた。
「景虎様、ここはひとまず逃げましょう」
「………」
「火にまかれるまえに避難しましょう」
直江がいうそばから、炎は次々とその威力を増して行く。逃げる人々の足音も激しくなってきた。
「こっちへ…景虎様。とりあえず水のあるところなら…」
「…ああ」
三郎は、呆然としたように答えた。
嫌な音を立てて、焼夷弾は落ちてくる。まさに雨のような勢いでもって家々に降り注ぐ。
迷いは許されなかった。
躊躇している時間はなかった。
直江は三郎を守るように、かれの半歩ほど後ろを、マントを翻して走っている。
生きるために。この時を生き抜くために。
(俺は、なにをやっているのだろう)
駆けながら、三郎は思った。いったん投げやりな言動をしておきながら、なぜこうして直江と走っているのだろう。やっぱり命が惜しいのだろうか。
炎の向こうに越後が見えた。
城が見えた。
三五〇年前の自分が見えた。
これは幻想だろうか。それとも蜃気楼が見せているのだろうか。
(義父上…!)
僧の衣をまとった義父・謙信の姿も見えた。それが…口元をほころばせながら悲痛な表情をしているのはどうしてだろうか。
目前でぱっと炎が散った。燃えている木が、火の粉を飛ばしている。
「危ないッ」
「!」
直江がすかさず護身壁を張った。同時に脇から柵が、燃えながら倒れた。
空が燃えた。
天が燃えた。
あたりは火の海だった。回りはすべて紅の色で染まっていた。
ひとりふたりと、道に倒れているひとの数が増してくる。ぐしゃりと、音を立てて前方の家が崩れ落ちてゆく。
「景虎様、大丈夫ですか?」
護身壁を張ったまま、直江が問いかけてくる。けれども三郎は答える術をもたなかった。
(俺は、何をしているんだろう?)
半ば呆然と、かれは思っていた。
めらめらと四方は燃えさかっている。天をも焦がすかと思われるほどに、火の粉が高く舞い上がる。
地獄絵図。
まさにこれは、現世に現れた地獄絵図であった。
煙にまかれた人間が、またひとり息絶えて行く。動けなくなったひとが隅のほうにうずくまっている。
「景虎様」
直江に促されるまま、三郎は足を進めていた。この惨状をまのあたりにして、思考力もなくなっていたようだった。
ひどい、とおもった。
悲惨だ、とおもった。
こんなことがあっていいものだろうか、とも考えた。そしてそれは、たどり着いた先の川を見たとき、より激烈な奔流となって三郎自身を襲った。
「……………」
声も出なかった。涙も出なかった。
いまだ続け様に降ってくる焼夷弾の音など、まったく耳に入らなかった。
(これは……)
彼は絶句した。ともに先程見えた、軍神・謙信の憂いのこもった表情が浮かんできた。
(義父上ッ!)
三郎は胸中で叫んだ。自分はなにをやっているのだろう。一体何の役にたっているのだろう。
俺はそんなに、例えば直江がその生命をかけてかばうほどの人間なのだろうか。三五〇年前ならいざ知らず、現代では……。
繰り返してきた疑問が、ここで一気に己れのなかでつき上げた。
「直江」
立ち止まった三郎は、自分の脇に立つ人間を呼んだ。
「我らが与えられた使命は何だったのか?」
「はい、景虎様」
今度は、直江も驚かなかった。瞳のなかに炎をうつしながら、何度も答えている同じ文句を口にした。
「闇戦国より現世を守り、現世の人々を守護することです。ですから」
「……………」
「景虎様、貴方がいなくなってはいけないのです。冥界上杉軍はどうなりますか?謙信公からの使命も……」
「直江ッ!」
正面を見つめたまま、三郎は絶叫した。景色が滲んだ。
「俺たちの『力』がこの時代で、どれだけの役に立っていると言うんだ!義父上からの使命はあくまで現世の人々を守り、平和を保つことだ。そのために俺たちは幾度も換生してきたんだ。それが…」
三郎の頬を涙が伝った。
「それが、どうだこれは?この状態は何なんだ?」
“景虎”は泣いた。紅一色に包まれた光景をみながら、泣いていた。
『力』は、大量の科学兵器の前ではものの役にも立たなかった。自分たちが三五〇年前、戦をしていたときは弓矢や鉄砲がせいぜいだった。
それが、いまはどうだろう?火の玉は上空から、数限り無く落ちてくる。爆弾ひとつが一瞬にして、多くの命を奪う。これを自分たちは守りきれたか?
『力』が、最大限に威力を発揮するのは原則として人間にである。霊体にである。一万メートル上空を飛ぶ米軍の飛行機の大群を相手にはできないことはない。だがそれをするには、『力』はあまりにも異質すぎた。
「『景虎』は現代では、無力だ。現世のひとを守り切れない!」
涙を流しながら、三郎は自分を責めた。空襲も、ひとが死ぬのもなにもかも自分のせいだといわんばかりにいった。
「冥界上杉軍は、名ばかりだ。なにも、できない!!」
なんで、自分はここにいるのだろう?
なんども換生してきたのは何のためだったのだろう?
かれは絶叫した。行き場のない感情が、己れのなかを巡った。
やりきれなかった。できれば、現実から逃避したかった。いっそのこと永遠に身をかくしたくなった。
この国はどうなっているのだろう?どうすれば救われるのだろう?
「……………」
火の粉が風にあおられて、空を舞う。激しい炎の勢いは、おさまる気配をみせない。
悲惨な光景だった。
非情な世界だった。
どうにもしようがなかった。
(景虎様…)
呆然とする三郎の後ろに、寄り添うようにして立っていた直江は、悲痛な瞳を投げていた。
主君の心の痛みはよくわかっていた。もちろん、それが景虎本来の優しさによって拍車をかけられていることも、十分知っていた。どれほど景虎が苦しんでいるかも、手にとるようだった。
そう考えると、三郎の言動のひとつひとつがすべて理解できた。自棄をおこしたように憲兵に捕らわれてくるのも、自分に当たるような行動をとるのも。プライドの高い、それでいて不器用な将は、こうする以外なかったのだ。
「…でも考えてみれば当たり前だな。自分の身も守れないで、お前に頼っているんだから」
再び、背をむけたままで三郎がいう。ひたすらに己れを責める景虎の苦しみは、とどまらない。
柔らかな魂は傷付いていた。
優しい虎は疲れきっていた。
あるいは、狂っていたのかもしれない。この狂気のなかで、まともでいられる人間のほうがおかしいのかもしれない。
守るべきものを守れない。それどころか、自分は荷物になっている。
三郎は自分の非力が腹だたしかった。腑甲斐無さに腹をたてるを通り越して、自責と厭世と悔しさとかなしさ…様々な感情に襲われていた。
わざと憲兵につかまるように歩いたり、直江にすべてをふぶちまけるように当たったのも、そのせいだった。
「俺は…この世ではなんの力もない…直江、お前が自分を捨ててまで守る必要はない…」
視線を前方に漂わせて、三郎は言葉を継いた。狂ってしまったほうがどんなに楽であろう。どんなに倖せだろう。
かれは打ちのめされていた。突き付けられた現実に対処する手段もなく、魂のみが痛手を負っていた。
「景虎様」
直江がぽつんと名を呼ぶ。穏やかな落ち着いた声だった。
「それでも、私はあなたを守ります。守らなくてはならないのです」
「…なぜだ」
振り返ろうとは微塵もせずに、三郎が問い返す。寒い夜空にまた、炎が散った。
直江は直立不動である。目は一点を見つめている。それが、一時、遠い瞳をみせ…すんなりと本音を吐き出した。
「あなたを、愛しているからです」
これ以外に理由はいらない。愛しているから、それだけで自らの身を盾にし、相手を庇い、守る、行動の理由は十分だった。
もしくは、こんな言葉はこの場にはそぐわない台詞だったのかもしれない。しかし、乾ききった魂に少しでも潤いをもたらすためであれば、最も有効な文句であったろう。
「……………」
三郎は、なにもいわない。目前に広がる惨状を見ているだけで、精一杯であった。精神は、もう一衝撃が加われば、粉々に砕けそうなほどだった。己れを保っておくのがやっとだった。
うめき声。
動かなくなった人々。
戦国の世よりもはるかに残酷な世界がここにあった。
壊れた世の中。どんな凄まじい形容詞を列記しても、惨状を表現するには足りなかった。
「直江…」
三郎は、ほとんど聞き取れぬ位の声量でもって呟いた。いや、呟いたのは三郎ではなかった。景虎でもなかった。声を出したのは、傷付いた人間の『魂』であった。
「わかっている…」
「景虎様」
直江はゆっくりと手を延ばした。前に立つ三郎に触れた。拳を握って立ち尽くす景虎に触れた。
「生きましょう、景虎様」
肩を抱く。そして直江は、全てのものから守るかのように、三郎の身を包みこんだ。
「どんなことがあっても、私は目を背けません。前を向いて…生きましょう」
炎が、音をたてて空へと消えて行く。いっこうに衰える様子もない火は、まだあたりを焼いている。朱の色一色につつまれた世界。それは、あの戦国の時代の光景とだぶって、直江の目にもうつっていた。
火の中で、上杉景虎は死んだ。上杉だけでなく、日本中のあちこちの城で火が燃え、ひとが死んだ。
何回、この国は同じことを繰り返すのだろう。何回繰り返せば気がすむのだろう。
それは、だれにもわからない。この国が、本当に地図上から消滅してしまうまで、何人にもわからないのではなかろうか。
直江は、おもった。
破壊と再生はめぐりめぐって世にいたる。願わくは、この破壊の後に続く新たなる再生がやってくることを。
「何があっても、私は生き抜きます」
三郎を抱き締めたまま、かれはいった。わずかでも三郎の痛みをぬぐってやりたい、そうおもった。
もし、このままこの国が滅んでしまっても、私はその行く末を見届けるでしょう。
こうも続けた。不気味に通り過ぎる炎の風を周囲に感じながら、力をこめた。
「……アア」
三郎も、答える。自分を抱く直江の腕に己れの手をおきながら、目をつぶった。
いいようのない、心の痛み。むきだしの心臓に、毒矢をつきたてられたような、かなしみ。
それをわずかでも癒し得るのは、この、直江の腕ではなかったか。幾度も換生をともにし、幾度も同じような修羅場をともにくぐり抜けてきた忠実な“戦友”ではなかったか。最後の最後に頼りにできるのは、自分と同じように走ってきた直江ではなかったろうか。
(直江…)
少なくとも、景虎はひとりではなかった。いつの世でも、必ず、いつもだれかがいた。勝長がいた。長家がいた。晴家がいた。そして、直江がいた。
(…ありがとう)
三郎は、すこしだけ、傷のふさがった心で呟いた。暖かい相手の体温が、なぜかひどく懐かしかった。
昭和二十年三月、東京は焼け野原になった。
「直江…」
ふと、彼は我に返った。我に返った、というよりも気がついた、のほうが適確かもしれない。
「あ、あれ?…」
目を開けると、白い天井があった。さらにすこし視線をそらすと、蛍光灯が目に入った。
どうやら、自分は寝ていたらしい。脇の窓からは明るい光が差し込んでいる。
「え、ええと…」
「高耶さん」
「え?」
体を起こそうとした高耶は、聞き慣れた声がそばにいるのに驚いた。
「直江?…俺…」
直江が、いた。
窓際に立っていた黒のスーツは、いつもの穏やかな雰囲気を携えながら優しい瞳をこちらに向けていた
「だいぶうなされていましたね…っと、駄目です。まだ寝ていて下さい。交通事故にあったんですから」
身をおこそうとする高耶を静かにとどめて、直江はベッド脇の椅子に腰をおろした。
「大丈夫ですか?高耶さん」
直江がいう。
『大丈夫ですか?三郎さん…』
(あれ?)
不意に、高耶の耳の奥を、聞き覚えのある声と台詞がよぎった。確かにそれは知っている。が、それはいつのことだったろうか?
「高耶さん?」
直江が不思議そうに彼を見る。柔らかな光が直視した。
(ああ、そうか…)
高耶はおもった。この、漆黒にきらめく優しい瞳を、自分は知っている。労り、傷を癒そうとしてくれた腕を、知っていた。
あれは、夢だったのかもしれない。幻想だったのかもしれない。けれどもそれは、限り無く現実に近いものだった。過去にあったことだった……。
「いや…」
彼は軽く言葉尻を濁した。いわなくてもいい。なにもこの男にはいわなくていい。いわずとも、直江はすべて分かっているだろうから。
だが、彼はひとつだけ、どうしても伝えたいことがあった。伝えなくてはいけないと思った。いまこそ言わねばならないと思った。
「直江」
「はい、なんですか?高耶さん」
相手が問い返してくる。かつて…いや、いま聞いていたものと同じ口調で。
なつかしい。その口調はひどくなつかしかった……
「…ありがとう、直江」
高耶は一言、口にした。そして、わらった。心配ごとがふっきれたような清々しい笑みを浮かべた。
あれは、昭和二十年の夜。
そこには、晴家がいた。直江がいた。それから……
「え?どうしたんですか?高耶さん。私はなにも…」
礼をいわれるようなことはした記憶がないといいたげに直江が少々戸惑っているのに、かれはかぶせるようにいった。
「いいんだ直江。見舞いに来てくれたんだろ?」
「あ、はい。それはそうですが」
「だから『有り難う』っていったんだ」
高耶はもう一度、わらった。楽しそうな面持ちで屈託なくわらって、続けた。
「治ったら、どっか遊びにいこーぜ。直江」
外は明るい。
空は見事なまでに青く広がり、澄んだ空気はさわやかに、この病室に流れ込んでいた。
(了) |