月の欠けた夜〜孤独な時間の終わりに
その1
  二○○×年、六月。
 梅雨の時季にもかかわらず、東京では珍しく青空が広がっていた。
 新都市開発地域でもある、湾岸エリアの高級リゾート地の一角にあるベイサイドホテル。名前のとおり海に面したこのホテルのなかにある独立したひとつの建物内では、この時期にはよくあることではあるものの、いつものような準備が予定どおり進められていた。
 「蘭ちゃん、おめでとう。いやーほんまにきれいやわー」
 薄いピンクの明るいカーテンのひかれた小部屋をのぞき込んだ和葉は、祝いの言葉を述べた。
 「ありがとう、和葉ちゃん。大阪からわざわざ来てくれて」
 「今日は天気もようて、よかったやん」
 「昨日は大雨だったけどね、そのせいかな」
 中央の椅子に腰掛けていた蘭は、微笑みながら、入ってとばかりに手招きをした。
 「ここ新郎新婦の控え室なんやろ?ほんまに入ってええのん?」
 「全然かまわないから、入って入って。園子もいるし」
 蘭のさらなる招きに応じて部屋に足を踏み入れた和葉は、そっととなりの椅子に腰を下ろした。
 「和葉ちゃん、今日の蘭ちゃん、いいよね」
 蘭を挟んで反対側、本来は新郎が座っているべきであろう位置の椅子に腰をかけているのは、蘭の親友・鈴木園子である。それにおおきく頷いて和葉は答えた。
 「うんうん。そのドレスのデザイン、ほんまに蘭ちゃんによう似合っとるわ」
 「和葉ちゃん、それほめすぎよ」
 蘭は少しばかり頬を赤くしていった。
 ジューンブライド。
 毎年六月は一年十二月の間でも、もっとも結婚式場が華やぐ時期である。六月の土日は各式場やホテルは予約でいっぱいとなる中、その二日をも借り切って、めでたくもゴールインするふたりがいた。
 「いいよねえ、私がドレスを着れる日はいつになるかしら」
 シンデレラ・シンドロームに若干かかっている園子が、うらやましげにいう。もっともこれもいつものことだが。
 「まあまあ、園子」
 蘭は苦笑いをしながらたしなめた。
 「私をおいて、蘭がお嫁にいっちゃうなんて、私これからどうしよう」
 「園子はん、それ、彼女をとられた男の台詞やで」
 「和葉ちゃんだってうらやましいわ。服部君がいてさあ。私にはなぜ幼なじみの男がいないのかしら」
 「園子はん」
 今度は、和葉が逆襲する番だった。
 「平次でよかったら、いつでも、のしつけてあげたるで?」
 「それは遠慮しとくわ。いくらなんでもひとの男はちょっとね」
 控え室に笑い声がひびく。それが、式の開始を直前にひかえて、緊張しがちな蘭の気持ちをときほぐした。
 「で?工藤君は?」
 一息おいて、和葉がまた尋ねる。新郎新婦控え室にもかかわらず、肝心の新郎の姿がどこにもない。トイレにしては長すぎるようなきらいもある。
 ところが、かえってきた答えはいつものパターンであった。
 「どっか行っちゃったわ。式までには帰ってくるっていってたけど」
 「和葉ちゃん、とんでもないでしょ、あの男。結婚式だってのに新婦を置きっぱなしにしてさあ」
 蘭の答えに園子が上乗せする。蘭は親友でも新一はどうでもいいらしい彼女は、親友を困らせるような男はろくでもないと決めてかかっているようであった。もちろんそれとは裏腹に、口調からは、そんなふたりの関係をうらやましがっているというのはあきらかにせよ。
 「そいつは、違うで」
 そこで突然、関西なまりの男の声がひびいた。挨拶のかわりなのだろう、戸口には、軽い感じで片手をあげた色黒の礼服が立っていた。
 「あ、服部君」
 「平次」
 声をかけられたのにもかまわず、関西の名探偵は続けた。
 「花嫁があんまり綺麗なんで、困ってしもたんやろ」
 「え?」
 「なあ、工藤」
 廊下のほうを振り向きざま、服部は呼びかけた。
 「るせーよ、服部。おまえ、大阪からひやかしに来たのかよ」
 悪態とともにあらわれたのは、今日のもうひとりの主役であった。少々顔が赤いのは、服部の言いぐさが必ずしもはずれていないことを意味しているのだろう。
 「あ、赤うなった。図星やったんかいな」
 「てめー、いいかげんにしろよ」
 漫才のような掛け合いに、部屋の中に明るい笑い声がまたひびく。和やかな空気が自然に室内を満たしてゆく。
 「あ、そろそろ時間だわ。行こう和葉ちゃん」
 壁にかかっている時計に目をやった園子が、和葉をうながすように立ち上がる。
 追随して和葉もたちあがり、それと入れ替わるようにして服部が新一を室内に押し込む。そして一言、だめ押しを放った。
 「工藤、まだ式の前やからな。蘭ちゃんに妙なことすんなや。時間もないしな、誓いのキスは後でゆーくっり、拝ませてもらうで」
 「バーロー、はやくいけ!」
 ほなさいなら、と言い捨てて背を向ける服部に新一は怒鳴った。同時にホテルの係員が告げにくる。
 「式場のほうへご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
 「じゃあ行くか、蘭」
 かれはいとも自然に、いや、そうあるのが当然のような仕草で、蘭にむかって右手を差し出した。





 ホテル内に設けられた教会式の式場は、品のあるマホガニー色にいろどられ、パイプオルガンまで備え付けてある、なかなか本格的なものであった。
 工藤家、毛利家の親族やその友人たちが列席しているのは当然のことではあるにせよ、特筆すべきは、警察関係者がずらりと顔をそろえていたことだった。
 「ううう、蘭が、蘭が・・・・」
 その中で、あたりかまわず子供のように泣きじゃくっているのは、新婦の父・毛利小五郎である。いくら結婚を承諾したとはいえ、やはり当日になってみれば気持ちが高ぶるのであろう。
 「しっかりして頂戴、あなた」
 隣でその新婦の母・英理がハンカチを渡しながら、なんとか夫を落ち着かせようと努力している。
 「生き別れになるわけじゃないんだから、落ち着いて頂戴」
 「うううう・・・・」
 みたところ五、六十名は入れるであろう式場内は、ごく一部の人間を除いて式の開始を待っていた。
 牧師が正面の祭壇にたっている。パイプオルガンがバッハを奏ではじめる。
 (頼むから、はやくおわってくんねーかな)
 ひたすらこう念じながら、新一は、祭壇前に所在なさげに立っていた。まったくこれではさらし者である。教会で式をあげる羽目になったのはひとえに母と蘭に押し切られたようなもので、こうなるのはわかりきっていたものの、主導権を握っている女性の前ではどうしようもなかった。結婚式については男は殆ど口を挟めない、というのは聞いたことがあるが、まさにそれを実感する。
 これでは、後でまた服部がなにか冷やかしにくるに違いない。
 (やっと、か・・・・・)
 ようやく、後ろの中央正面の扉が静かに開く。
 ほっとしたような気分になるのは、注目が一時的に自分から離れるからでもあったろう。
 白いドレスを身にまとった蘭が、ゆっくりと中央の通路を歩いてくる。通常それに付き添ってくるのは花嫁の父と相場がきまっているが、手を引いているのは小五郎ではなく、代役を依頼された目暮だった。
 「蘭君、君も大変だなあ」
 目暮が小声で話しかける。
 「いえいいんです。すみません目暮警部。うちのお父さんがああなものですから・・・・」
 蘭も小声で答える。
 バッハのカンタータが最後の和音をひびかせる。
 「工藤君、あとは頼んだぞ」
 蘭の手を新一に預けるや、殆ど父親のような台詞を投げかけた目暮は、自分の役目は終わったと言わんばかりにそそくさに去り、列席者のひとりとなった。
 式が、はじまった。
 (蘭、よかったね。・・・・でも、うらやましいなあ)
と、胸中でつぶやいているのは園子だった。しかし、蘭の紆余曲折をもっとも近くでみていたのも、彼女だった。
 祭壇の中央に立っている親友の後ろ姿を眺めながら、ふと感傷的な気持ちになる。
 高校時代、蘭は、新一から連絡がないといっては怒り、あったといっては喜び、何も言わずにいなくなったといっては泣いていた。これだけ親友をふりまわす男を、今の今まで正直なところあまり快くおもってはいなかったが、今日の蘭の、うれしそうな表情をみれば何もかも許せるような感情にかられる。
 (まあ、なんとかおさまるところにおさまった、って感じよね)
 園子は軽く息をついた。
 もう、蘭が泣くことはないだろう。そして、自分が蘭をなぐさめることも。
 『それでは、指輪の交換を・・・・』
 静まりかえった式場内におごそかな声がひびいている。式は順調に進んでいるようだった。
 (さあて、しっかり見とどけたるでえ、工藤)
 こちらも通路の端に座っていた服部は、どんなことも見逃すまいと祭壇のふたりに視線を注いでいた。むろん新一が予想したとおり、半分は後で冷やかすためである。
 が、新一のよきライバルとして西の名探偵を名乗る服部にしてみれば、心の奥底ではもちろんのこと、祝福の手をたたいている。
 新一が江戸川コナンであったときは、苦労もさせられたしフォローもした。ただ、蘭に正体がばれないように骨を折ってやったことは、結局無駄になってしまったようであるが。
 (よかったやんか、工藤)
 服部は素直に祝いの言葉を述べていた。
 江戸川コナンにふりまわされることは、もうない。それはそれで少々物足りない気もしないではないものの、これが本来のかたちであることをおもえば、取るに足りない話であろう。
 『では、誓いのキスを・・・・』
 (来た来た、これはよう見たらんと工藤に失礼やからな)
 ここぞとばかりに目を皿のようにした関西の名探偵が、こうつぶやいたときだった。
 まさに、そのとき。
 突如として、室内に不穏な気配が立ちこめた。
 場内の端にある係員用の出入口から、緑色のスーツをきたホテルの係員が目立たぬように、ただし少々急いているような気持ちを無理に押し隠したような雰囲気で、足早に入ってくる。
 係員は誰かを捜しているようではあったが、席の端に座っていた目暮の脇にくるなり何事かを耳打ちした。目暮の顔つきが微妙にかわる。
 「・・・・・・・・・」
 小声でさらに係員になにか指示を出した目暮は、そっと立ち上がり係員用の出入口へと向かった。次いで白鳥、高木の両刑事が同じように、姿勢を低くした態勢のまま静かに会場の端にむかっていく。
 どう考えても、尋常ではなかった。どう楽観的にみても普通の状況ではない。
 「刑事はん、なにかあったんでっか?」
 何かを感づいた服部は、こっそりと去っていこうとする高木の服のすそをつかまえた。
 「え?何?なんでもないよ」
 「何でもないわけあらへんやないか。式の最中に警察の人間ばかり席を立っていくなんて、普通やったら考えられへん。・・・・事件でっか?」
 「いや、その・・・・」
 口では服部のほうが上のようだった。実直すぎるほど実直な高木は、とっさの返事に窮した。はやく答えなければ式の邪魔になり、警部にも怒られる。かれにできたことはそのままの事実を伝えることだった。
 「・・・・実は、中庭で人が殺されたそうだ。たった今・・・・」
 「何やて?殺人でっか!」
 そこで思わず、服部は叫んでいた。高木が中腰の姿勢のまま凍り付く。
牧師の声が中断する。
 会場内がざわめきだした。
 厳粛な空気に包まれていた室内は、いきなり普段の生活空間に早変わりした。
 祭壇中央に集まっていた視線が、いっせいに方向をかえて集中する。注目されているはずの、中央の新一と蘭でさえもこちらをむいた。驚いたように目を見開いて。
 「平次、やめてんか!式の最中やのに」
 「あ」
 隣に座っていた和葉の小声に、ようやく関西探偵は自分のおかれた状況に気がついた。
 「・・・・えらい、すんまへん」
 「声、大きすぎ!フォローになってへんやないの!」
 「それ言うたら、おまえのほうが声でかいやないか」
 「皆、みてるやないの!人に責任転嫁するのんはやめてんか」
和葉の抗議はそのままに、服部は、前方の中央にいる新一にむかって中腰気味に立ち上がり、ぺこんとひとつ頭を下げた。
 「すまんな、工藤」
 「いや、いいんだけど・・・・殺人って、どういうことだ?」
 高い天井に、声がよく響いてこだまする。
 逆に問い返す新一に、服部は、胸の前で両手をふってごまかそうとした。どうやら、粛々と進んでいた儀式は完全に中断されたようであった。
「い、いや、なんでもないがな。牧師さん、続けてもらえまっか?」
 あわててフォローしたのは、すでに遅かった。新一の注意はあきらかに服部の言葉のほうに傾いたようだった。
 たった今、このホテルで事件が起こったらしい。
 「・・・・行っていいよ、新一」
 そこで蘭の声がひびいた。おだやかに、いつものような微笑を浮かべながら、彼女はいったのである。
 「え?」
 思いがけない言葉に、新一はその瞬間、己れの隣に立っている新婦の顔を、さらに驚いた表情とともに見やった。
 「何かここのホテルで事件が起こったんでしょ?」
 「だけど、蘭・・・・」
 珍しく、かれは口ごもった。
 事件が起こったのは、服部の台詞から間違いないだろう。蘭のいうとおり、現場へ飛んでいきたいのは山々だ。だが、よりにもよって自分たちの結婚式の真最中である。いくら事件でも、新郎がそのために場を離れるということは、やってはならないことだろう。
 悪夢がよみがえる。
 それは「江戸川コナン」だった頃の昔の話だが、蘭と食事をしていたビルの最上階にあるレストランで同様な経験をした覚えがある。
 そのレストランの階下で同じように殺人事件が起こった。同じようなシチュエーション、そして蘭はあのときも行っていいと言ってくれた。しかし・・・・
 結局、蘭とはそれきりになってしまった。薬が切れ、江戸川コナンに戻ってしまった自分の前で、蘭は泣いた。いいわけはききたくないといって涙を流した。そのときの身をけずられるようなおもいは、トラウマのように心に刻み込まれて離れない。
 もう二度とあんなまねはしたくない。蘭を泣かせるようなことだけは。
 そう心に誓っている。
 幸いにして、すでに江戸川コナンに戻る危険性はいまでは皆無なものの、あのときの情景は忘れようとしても忘れられない記憶として、くっきりと頭の隅にこびりついている。
 「おれは・・・・」
 「行っていいよ。でも約束して。事件が解決したら、すぐここに戻ってきてね」
 「蘭!」
 そこで声をあげたのは、母・英理だった。最前列に座って一人娘の晴れ姿に涙していたこの敏腕弁護士は、まるで信じられないといったようにつづけた。
 「まだ式は途中なのよ。事件は警察にまかせておけばいいじゃないの。ここにはお父さんも服部君もいるんだし」
 「お母さん」
 それを遮るかのように、娘はにっこりと笑って言った。
 「いいのよ。こんな状態じゃ、新一が式に集中できるわけないもの。それに式も中断しちゃったし、これだったらはやく事件を解決してもらって、もう一度やり直したほうがいいわ」
 「蘭・・・・」
 愛娘の台詞に、英理は次ぐべき言葉を失った。参列者もところどころ欠けている上に、この雰囲気では、たしかに娘のいうほうが道理かもしれない。
 「新一」
 再度呼びかけて、彼女は視線を戻した。
 「はやくいって。私は待ってるから」
 「ありがとう、蘭。絶対にすぐに戻って来っから」
 かれはいった。ここまで言ってくれる蘭に、ありったけの感謝と誓いをこめて。
 くるりと振り返った新一は、生き生きと、正礼装の燕尾服姿のまま、つい二十分ほど前に入ってきたばかりの出口に向かって走り出した。
 「ほら、平次!あんたも早よ行かんかい!工藤君の手伝いや」
 「言われんでもわかってるわい」
 一部始終をみていた和葉が、この原因をつくった幼なじみを小突く。それに対して、服部も片目をつぶりながら得意げに親指を立ててみせるがはやいか、すぐさま新一の後を追うように駆け出した。
 同じようにして、英理も、隣に座っていた自分の夫にはっぱをかけている。
 「何してんの!あなたも事件がはやく解決するように協力しなさい。蘭がかわいそうでしょ!」
 「っるせーな、わかってるよ」
 強気の女性ふたりに追い立てられた男たちは、いっせいに新一の後を追ってゆく。
 式場内は、またたくまに人が減った。
 「蘭、立ったまんまじゃなんだから、こっちで座っていない?」
 声をかけたのは園子である。
 「えらいことになっちゃったわねえ」
 「うん、ありがとう園子。でもごめんね、手間かけちゃって」
 促されるまま、蘭は列席者の座る長椅子に腰掛けた。
 「気にしない気にしない。蘭のためだもの。だけど」
 ここで小声になった園子はいつものように、ひやかしたような問いを投げた。
 「・・・・あんなダンナじゃ、あんたも苦労するよね。後悔してない?」
 「ううん。いつものことだもん」
 蘭は即座に首を横にふった。
 「それに・・・・」
 いいかけて、しかしその後は口を閉ざして天井を見上げる。
 (新一がいなくなるなんて、もうないから)
 江戸川コナンであったのは、今は昔。新一がコナンであった頃のことが今はとても懐かしい。
 あのころはよく泣いたっけ。連絡は夕立のように、いつくるかわからない電話だけ。いいわけの理屈はいつも『厄介な事件にかかわっている』の一点張り。無事を案じながらも寂しさに耐えかねて、涙をこぼすこともよくあった。
 かれは、こんなに近くにいたのに。姿形はかわっていても、いつも新一はそばにいたのに。
 思えば、夢のようである。
 「あ、そうだ。私、ホテル側に式が延びるって、言ってくるね」
 「ごめんね園子」
 「いいって。結婚式はぜひうちのホテルであげてくれって頼み込んだのはうちのパパだし、どうせ明日まで借り切ってるんだから、時間が多少ずれるくらい大丈夫だって」
 園子は身軽に振り返ると一度手を振って、歩き出した。


その2 へ続く



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