月のイマージュ
第1部
 夢を見ていた。
 幻想を、見ていた。
 それは限り無く現実に近い、あるいはまた真に現実だったのかもしれないが……透明な一枚の画像を、彼はみていた。 雪が降り積もった町中を、男が歩いていた。冬の、薄灰色の空の下だった。
 背の高い男だった。そしてなぜか、自分が以前から知っているような影だった。
 懐かしい。
 不意にかれは、その後ろ姿から滲み出てくる空気に、郷愁を覚えた。
 いや、知っている。自分ははっきりと知っている。または、知っていなければならないはずの男だった。
 (ああ、そうか……)
 高耶は思った。俺はここにいたのだとおもった。
 実際、彼はそこにいた。それは確かに、己れ自身でわかっていたことだった。実感としてもっていたことだった。


 昭和二十年の、早春にはまだ遠い頃、東京にはその日、雪が降った。
 息が白い。はきだした息は、そのまま静かに白い世界にとけこんでゆく。
 かれは、その手にもっていた幾つかの書籍を小脇に抱えると、両手に息を吹き掛けた。二、三度こすりあわせる。
 「………………」
 無言のままかれはそこに立ち尽くした。ひとは案外とまばらだった。
 どこからどうみても、その書生姿は大学に籍をおく学生以外にみえなかった。しかし、学生服、すなわち通称で学ランとよばれているものを着用しているのがほぼ一般的となっていたこの頃に、着物姿とはいささか目立ってもいただろう。 町には、彼のような青年の姿はほとんど見当たらない。大概は婦人か、年寄りであった。そのことが、彼を一層隔世的にみせた。
 彼の目は生気を失っていた。若者らしい光はなく、かわりに濁ったものが浮かんでいた。足取りも、しっかり大地を踏んでいるというものではなく、どこか目的をなくしたような、そんな感じであった。
「T ───────大学の笠置三郎だな?」
 突然に声がかけられた。
 気がつくと、不意に、前にものものしい軍服が立ち塞がっていた。四人、いる。そしてそのすべてが、カーキ色に身をやつし、腕に腕章をつけていた。
 『憲兵』…と、腕章には右から横書きがされてある。それが、僅かでも動くたびに、腰のサーベルが鈍い音をたてて空にかえった。
 「……………」
 かれは立ち止まったまま、頷いた。相手の言い方はひどく強引な、異議を唱えることを許さない響きをもっていた。
 「ちょっと来てもらおう。聞きたいことがある」
 カーキ色のうちのひとりがまた、口を開いた。かれはもう一度、黙って首をたてにふった。
 「………………」
 まわりを、警護兵のように軍服が囲んだ。行き違う人々は目を伏せながら、早足に去ってゆく。
 笠置三郎。
 それがこの時代における、彼の名であった。『景虎』としての己れがありながら、別名も『三郎』というのは、本来の自分が改めて思い出せるようで、興味深かった。冥界上杉軍を率いる将でありながら、何の違和感もなくそれぞれの時代に溶けこんでしまっているのを、彼はたまに不思議に思う。 もう、何回換生したであろうか。あの戦国の時代から数えて、一体何年が経過したであろうか。
 昭和二十年。
 これほど生きにくい時代はなかったように思う。もしくは、これほど自分達の力が意味をなさない時代もないように思う。 この、特異の力…『リョク』。
 「ついたぞ」
 「…………」
 そんなことを考えているうちに、目指す場所に到着したようである、彼はふと気付いて足を止めた。
 場所は、比較的大きめの道路ぞいにあった。がっちりとした冷たい雰囲気をたたえる門が、正面にそびえていた。おまけに、丁寧なことに、銃を手にした兵までがその両脇に控えていた。
 (憲兵隊の…司令部だな)
 三郎…またの名を「景虎」という…は、どんよりとした瞳で前を見た。
 「おい、ぐすぐずするなッ!」
 自分を引っ立てるように連れてきた、軍服のひとりが苛立ったような声をあげて脇を小突く。
 「……………」
 三郎は相手に促されるまま、その重苦しい建物のなかへ足を入れた。


 思想犯。
 彼等憲兵を初めとする一部のものは、三郎をこう呼んだ。体格もそれほど貧弱ではなく、一見したところでごく普通の健康な青年であるかれが、軍隊にもって行かれなかったのは実はここに理由があった。
 東京など大都市などでは、この頃、若い男性の姿はあまり見られなくなっていた。根こそぎ軍隊へ、さらに戦場へと否応なく送られた。
 戦争であった。戦況も悪くなる一方であった。適齢の男子という男子はすべて戦場へかり出された時代であった。
 そんな中で、かれはひとりぽつんと残っていた。軍当局が、彼を共産主義者と睨んだためであった。
 もちろん、三郎にはそんな覚えはいささかもなかった。ただ一度、雑誌社につとめる先輩につれられて、とある人物とあったことがある。その人物が共産主義者であったため、関係者として三郎もおそらく、目をつけられていたのであろう。その人物は特別警察につかまり、あげくの果ては獄中につながれ、死んだ。いくらか前の事である。
ともあれ、T ─────────大『笠置三郎』の名は、内務省のブラックリストにのっているらしかった。ことあれば、なにかにつけて彼を調べようとしているのは明確であった。
 「ここに座れ」
 建物の一室につれていかれた三郎は、指差されたちいさな堅い椅子に腰を下ろした。その前には古ぼけた机がひとつと、相手方の椅子がひとつ、壁の上のほうに鉄格子つきの窓が申し訳程度にあるだけで、あとはぞっとするような濃灰色であった。
 (取り調べか)
 三郎は頭の隅で思った。今まで二回ほど、尋問はされている。もう言うことはない。だが、無実を勝手にでっちあげられるとも限らなかった。
 「笠置三郎、思想犯の疑いで聴取する」
 ひとりが強い口調で言い切った。かれは黙っている。いうべきことはないからだ。
 「多少ききたいことがある」
 相手は続けた。三郎の態度などどうでもいいようであった。
 「待て。そのものの尋問は俺がやる」
 そのときだった。急に、別の声がひびいた。
 「あ…ハッ」
 尋問をしようとしていた相手が、声のしたほうを向き、即座に姿勢を正した。
 「貴様らは、いっていいぞ」
 「ハッ。ですが、中尉殿。このものは…」
 「構わぬ。私がやる」
 「ハッ、わかりました」
 相手は三郎に一瞥をくれると、何かをいいたそうに出ていった。入れ代わりに男が、ひとり入ってくる。
 長身である。そして…制帽の下はよく見慣れた、切れ長の目が瞬きもせずにこちらをみていた。
 「……………」
 交替した、中尉と呼ばれた男は、歩み寄るや、すっと三郎の真向かいに腰を下ろした。武道などで自然に身についた、しなやかな動きだった。じっと三郎が見ている前で、さらに男はゆっくりと帽子をとり、白の手袋もはずした。
 瞳が、あがる。
 「…景虎様」
 第一声はいった。
 「景虎様」
 もう一度、相手は三郎の名を呼んだ。
 「直江」
 三郎は相手を直視した。直江信綱、それが相手の中尉の本当の名前であった。これを知るものは、ほとんどいない。もし『直江』を知っているものがいれば、その人物は闇戦国の関係者以外にほかならないであろう。
 上杉景虎の重臣であり、上杉夜叉衆のひとりである男・直江。この人間もまた、いくらかの換生を繰り返したうえで、現世では陸軍の軍人として存在していた。しかも、憲兵隊の将校として。
 「話の前に、まず、両手を出して下さい」
 直江は静かにいいながら、自分の軍服のポケットから、いくつかの鍵のまとまった、キーホルダー状のものを取り出した。
 「……………」
 かちゃり、という音がして三郎の手錠が外れる。鉄製のそれを手慣れた手つきで、直江はまた鍵と一緒にポケットにしまった。
 「…景虎様、私の申し上げたこと、聞いては下さらなかったようですね」
 直江の端正な口元が歪む。冷静ななかにも、どこか苦しそうな表情をのぞかせて、かれは続けた。
 「しばらく人目のあまりつかないところに居て下さい、と…晴家のところならばまずは大丈夫ですから…と、私はあなたに頼んだはずです」
 「……………」
 「今まで二回ほど、あなたには言ったはずです。こう頻繁にここに来られても、いくら私でも限度があるんです。周囲や上層部からの関係上、そうなんども無罪釈放にはできないんです」
 そう、『思想犯・笠置三郎』は、二回ほど容疑の取り調べのため、今日と同じようにここに連れられてきた。そのたび、無罪放免にしたのは、憲兵隊将校としてある程度の権力をもっている直江だった。
 片や、共産主義者と危険視されている学生、片や、それを厳しく取り締まるために動いている軍人。現世においての主君と家臣は、ほとんど敵味方といえるべき関係に換生していた。運命の悪戯にもほどがあった。
 「俺だって来たくて来ているわけじゃない」
 ここで、ようよう三郎が口を開いた。普段の彼らしからぬ暗い瞳が光をもつ。
 「かといって、逃げるわけにもいかない。冥界上杉軍の、与えられた使命は果たさなければならない。…けれど」
 三郎の口元に今度は自虐的な笑みが浮かんだ。
 「本当に…永遠に身を隠したくなった」
 「景虎様!?」
 思いもよらなかった元主君の言葉に、直江は自然に身を乗り出していた。
 「今は笠置三郎だ、直江」
 「あ…はい、では三郎さん」
 乗り出した身を中途でもとに戻して、かれは対峙した。
 なにが、あったのだろう?景虎様になにが、おこったのだろう?
 「どういうわけですか、聞かせて下さい」
 「いや、言わないでもわかるだろう?お前には。…絶対分かるはずだ。闇戦国を知っているものには…」
 「……………」
 対して、三郎はこれ以上の反問は許さないといわんばかりの口調で、言い切った。
 (景虎様)
 直江は一部始終を観察しながらも、かなり三郎が精神的に参っていると感じていた。
 己れが主君は、滅法したたかで誰よりも強大な力を有している。目的のためには、時に冷酷にもなり、また一切のしがらみを断ち切れるひとであり、かけひきの手腕だとて相当なものだ。生まれついての王者とはこのような人間をいうのだろう、まさに誇るにふさわしい人物だ、とおもう。
 だが、一方でこの主君はひどくもろい面をもっている。もともとの性格が人並み以上に優しい上に、繊細な一面もある。 けれどもそれを表に出すことは許されなかった。戦国を生き抜くためには、あくまでも強さとしたたかさが不可欠であった。決して弱みを見せてはならなかった。見せたが最後、どこかに、誰かに付け込まれる。するとその後に続くのは滅亡しかない。
 (景虎様の人柄は、本来は戦びとには向かなかったのかもしれない)
と、ここにきて直江は思っている。名だたる大名家に生まれたがゆえに、ひとの上にたつものとしての力や条件は自然に備わってはいたが、それは本来の景虎の性格ではないということを、直江は知っている。
 優しすぎるのだ、このひとは。
 不器用なのだ、本来の姿は。
 事実、繰り返される織田勢との戦いのなかで、弱気になっている景虎をみたことは数知れない。そのたびに、励まして尻を叩いたのは直江自身だった。
 やむをえない、とおもった。自分達に与えられた使命があるかぎり、心を鬼にせざるをえなかった。景虎が、たとえばどんなに弱音を吐いたとしても。
 それが、最近も、景虎はかなり疲れているようにみえる。ちょうど、激しい戦いが連続して継続していたあのときのように。この自棄をおこしたような口調やことばには、覚えがあった。
 本来の性格が、露出している。
 冥界上杉軍を率いるリーダーではなく、ひとりの人間がそこにいた。その『かなり疲れている』疲労の原因は決して、自分の邪な感情ではないだろうとちらと思いつつ、改めて直江は、主君をこうせしめている原因を考える。お前にはわかるはずだと断言されたからには、それ以上景虎は何もいわないだろう。
 「…三郎さん、もう今日はいいです。どうぞ引きとって下さい」
 様子のおかしい相手を目の前にしつつ、直江はわざと突き放したような言い方をした。これも、今までの換生のなかでよくあったことだった。
 景虎が、無意識のうちに本音をぶちまけにくるのは構わない。が、それをいちいち汲んでやったらどうなるか…どうにもならない。使命は終わってはいない。甘えは許されない。 それと、もうひとつ。これは直江自身の問題があった。三五〇年間、ずっと自らの心の内に秘めていた問題が…いや、直江にしては後者の問題のほうが大きかった。
 ずきり、と音を立てて心が疼く。貴方が好きだと何度、言ってしまいそうになったかわからない。こんな状態の景虎を見るたび、何度触れたくなったかわからない。
 (違う!直江!しっかりしろ)
 考えが別方向に走りそうになるのをかろうじて、彼は押し止める。
 これはもはや倒錯だ。自分の役目は将・景虎を守ることだったはずだ。こんな感情はもってはいけないはずだ。
 (こんなことではない、景虎様は我々の使命のことでなにか、いいたいことがあるのだ)
 はっと気付いて、思い直す。
 (だけど、ここではそうもいかないな)
 ともあれ、直江は三郎をひとまず放免することに決めている。正確には、もう三度目になるが…もうすこし頭を冷やさなければならないだろう。景虎もなにやら感情的になっているようであるし、こんなところで正体がばれようものなら、それこそにっちもさっちもいかなくなる。
 思いを秘めたまま、直江は立ち上がった。詳細な話は、夜にでもしよう。こんな場所ではなく、できれば、割合安全な晴家のところででも。
 「三郎さん、今ここでは何もききません。でもあなたが何かいうことがあるのなら、夜にでも晴家のところに来て下さい。私も行きましょう」
 重ねて、言う。様子が妙である理由も、そこでならきけるだろう。         
 「できるだけもう、こんなところには来ないようにして下さい。約束して下さい、三郎さん」
 まさか、己れの主君に手錠をかけ、刑務所送りにし、拷問ともいえるべき尋問を受けさせるわけにはいかない。上杉軍を自らの手で滅ぼすようなものだ。謙信公の指令どころの話ではなくなる。
 (今まで換生した時代の中では、一番やりにくい時代かもしれない)
 ふと直江も、三郎と同じことを思った。よりによって、主と仰いできたひとを敵視し、おたずねもののように追わなければならないとは。
 「ああ、わかってるよ直江。アカの俺は、今世ではお前に助けられる以外にないってな。俺を生かすも殺すも軍の当局者のお前しだいだもんな」
 「景虎様!」
 「…いいんだ」
 対して、いきなり口を開いた三郎は、その皮肉な口ぶりとは裏腹に、目にわずかな感傷的な光を浮かべながら、立ち上がった。
 「いいんだ、直江」
 「景虎様」
 思わず、直江も立ち上がったときだった。扉をノックする音がいきなり部屋にこだました。
 「失礼します、立花中尉殿」
 「なんだ?」
 声をかけて入ってきたのは、先程のカーキ色の内のひとりだった。直江が振り返る。
 「中尉殿、司令官閣下が呼んでおられます。笠置は自分達が引き続き尋問しますので」
 「それはわかった。だが、笠置三郎は釈放することにした。もう尋問はいいだろう」
 「え?本当ですか中尉殿。しかし、笠置は…」
 下士官の階級章をつけた相手は、何かをいいたそうに唇を噛み締めた。
 「いや、笠置には思想犯としての完全な証拠はない。あくまでも“思想犯の疑い”だ。それなのにいつまでもとどめておくわけにもいくまい」
 直江はすらすらと述べたてる。ともに、まだ不満そうな部下に目を怒らせた。
 「上官の命令だ。聞けないならば抗命罪で、貴様等のほうが軍法会議にかけられることになるぞ。それでもいいか」
 「…ハッ、わかりました」
 渋々頷いた相手は、視線をそらせて荒い足音を立てながら、三郎に歩み寄った。
 「笠置、いくぞ。放免だ」
 「……………」
 三郎はまた無言である。そうして、そ知らぬふりをして、連れられるままに直江の前を通り過ぎていった。
 (景虎様)
 胸中で、直江は、幾万回も繰り返し呼んだ名前を呟いた。あるときは誇らしげな気持ちと共に、またあるときは、敵と刃を交える激戦のなかで、幾度となく呼んだ名を。
 あるいは、夜も眠れぬほど狂おしい気持ちのなかで。さもなくば数少ない甘美なおもいにおいて……。
 (景虎様)
 しかしながら、当の三郎は、彼の心の呼びかけには答えようとはしなかった。刹那たりともこちらを見ようとはしなかった。
 「……………」
 複数の足音が、遠ざかる。向こうの扉が閉まる。三郎の後ろ姿も視界から消える。
 (これで、いいのだ…)
 知らず知らず拳を握り締めた直江は、くるりときびすをかえした。
 心を、冷たい突風がなぶってゆく。
 景虎の心のうちは、わからない。


第2部へ続く

 



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